浄土真宗とカルトの比較2

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2009/02/08(日)
前回に続き、カルトの特徴と比較して、浄土真宗とはどう違うのかを書いていきます。

今回とりあげるカルトの特徴は

宗教は個々人を助け、その人の信仰的な求めを充たそうとする。
カルトは信仰的な求めを搾取する。



カルトといわれるものが、なぜ問題化するのかといえば、一言で言えば「救われない」からです。一般論的に、カルトといわれるものは、人の信仰心からくる行動を要求するばかりで、あたえられるモノが無いからです。

貨幣経済ではないですが、取られるばかりで受け取るものが少ないから「搾取する」と特徴にあげられています。

搾取するというもののなかには、種々の行動の自由を制限するということも入りますが、プライバシーの自由を奪うということも入ります。宗教における教えと言うことと、その人のプライバシーのことの区別がつかなくなるからです。

教義と私生活は、分けられないという人もあるでしょうが、この社会で生活する上では、区別として分けていかねば種々混乱を来すからです。なぜなら、法治国家の社会に生活する現代人にとって、法律というルールは厳然として存在し、それに反すれば犯罪者ということになってしまうからです。

教義というのは、信仰面での話で、教義がこうだから、法律や社会のルールは無視して良いとか、教義に反するからという理由で、犯罪者(法律的な意味で)呼ばわりしてよいということでもありません。教義上の理由で輸血を拒否して子供を死なせたという事件が以前ありましたが、カルト化がすすむと、教義と私生活が完全に混同され、状況においてはどのルールが優先されるかということがわからなくなるからです。

教義に反するという善悪と、法律に反する善悪と、世の中には全く別の物差しがあるということが、区別できなくなるところにカルトといわれるものの問題があるのです。
カルトといわれるものは、その団体の利益不利益が善悪の基準となり、それ以外のものを考えられなくなるので、社会と対立しがちです。それは、善悪の物差しが、1つしか無く、物事をすべて敵か味方か、白か黒かでしか判断できなくなってしまうからです。
結果的にカルトといわれるものが搾取するというものは、種々の自由の中で、いろいろな角度から物事を考えるという思考力なのです。思考力が奪われれば、その教義のなかでしか、世の中のすべてのことを考えられなくなってしまいます。

しかし、親鸞聖人は、世の中すべてが敵であるとか、正しい信仰を持っていればなんでもしよていと教えられたのではありません。

われ往生すべければとて、為まじきことをもし、思うまじきことをもおもい、言うまじきことをも言いなどすることは、あるべくも候わず(末灯鈔)

私は極楽往生できる身になったのだからと言って、やってはならないことをしたり、思ってはならないことを思ったり、言ってはならないことを言ったりするとことは、あってはならないと言われています。

ここで「為まじきこと」「言うまじきこと」というのは、当時の決まりや倫理道徳的なことも含めていわれていることです。

国所にあらば、守護・地頭に向きては疎略なく限ある年貢所当をつぶさに沙汰をいたし、そのほか仁義をもって本とし(御文章3帖目13通)

蓮如上人は、それぞれのすんでいる国では、守護・地頭にむかって決められた年貢を怠りなく納め、仁義を本として暮らしなさいといわれています。

いずれも、教義は「どんな人でも救われる」という教えですが、「法律や社会のルールを破ってもよいのではない、社会には社会のルールがあるのだ」と戒められたものです。

どんな人でも救われると言うところで、考えることを放棄してしまえばカルトになってしまうでしょうが、それは浄土真宗の教えがそうだからではありません。
それを信じる人間の問題なのです。
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タグ : カルト

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