蓮如上人も「心易いと思えば必ず仕損ずるぞ」とくれぐれも仰せられてあり、先徳も「必ず必ず早合点して済ましてはならない」とさとされています。
とかく大様一往の聴聞であったり、または邪見憍慢の気づまし安心、或はかかる者をお助けという押しつけ安心に陥ったりして、もうこれでよいと自分の心に落ち着いてまぎれていることがよくありがちです。随分と骨は折りながら、骨の折り場が違って、この心に聞かせることにかかるのは骨折り損です。だから少しでも心が聞いてくれたら、それに心を休め、それにだまされてとりかえしのつかないことにしてしまいます。
悪いことにはだまされないが少しのよい心がとかく自分をだますものなのです。つまり聞くことと、如来のお助けを別のことのように思いますから、聞いてはいるがそれほどに思われないということになるのです。
真宗は今直ちにお助けにあずかるのですから、今までの聴聞につぎ足してゆくのではなく、今ここで聞かせてもらうのです。聞いたことの上につぎ足して助けてもらうのであれば、願力成就の他力ではないことになります。この私の心がきばって聞いて、それがちょっとでも間に合うのであれば、機法一体の成就はいらなくなります。それかといって聞くことはどこまでも肝要ですが、暴風の中に残るものは天上の月一つでありますように、聞いた心が当てになるのではなく、仰せだけがまことであります。そこには自分の分別心がすべてぬぐい去られて、お助けのままに助けられてゆくほかはないわけです。
タグ : 加茂仰順