真宗の安心

--/--/--(--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2009/11/26(木)
『真宗安心』(加茂仰順師 百華苑刊)より

真宗のかなめは、安心であります。安心とは何でしょうか。
安心とは、私が救われたことであります。助けられたことであります。
真宗では、そのことを「信心をとる」とか、「信心獲得」とか申されています。
「信心をとる」とは、計らいの心の捨ったことであります。「自力の心をすてて」、「弥陀をたのんだ」のであります。
そのことを一口で言えば、真宗は、間違いないお助けがえられたのであります。
如来に助けられたのです。
人はみな、親心を頂こうと思うて苦心しますが、それは方角違いです。頂くことに苦心するのではありません。苦心されている親心を聞かせて頂くのであります。
頂くというのは、物をもらうようなことではありません。聴聞のところに、親心の全体があらわれて下さったのであります。
なぜかと言えば、弥陀の正覚のそのままが、私を救うためであるからです。
弥陀の正覚のありったけが、私の救い(往生)であります。
つまり仏智のままが宿ったのが安心であります。その大悲の宿って出るのが念仏です。
大悲がいつも通って下さるから、それを味わって念仏するのであります。大悲のあらわれたのが念仏です。
如来に生かされている一杯が如来の名号であります。
名号を頂くのであると云うても、名号を私が所有するのではありません。
名号のはたらきに、わが身全体が生かされるのであります。

 忘れて暮らす私に
 ナモアミダブツが先に出て
 思い出すときは
 いつでもあとよ
 わたしゃ つまらん あとばかり
 わたしの心が先ならだめよ
 親の慈悲が先にある
 親の慈悲が先ばかり
 わたしの返事はあとばかり
             (才市


スポンサーサイト
この記事へのコメント
URL:
Comment:
Pass:   
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック

 | Copyright © 21世紀の浄土真宗を考える会 All rights reserved. | 

 / Template by パソコン 初心者ガイド
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。