阿含経にはこのような話も出ています

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2009/11/26(木)
元の話がどのような場面で、どのように使われているか、考えてみましょう。

阿含経典による 仏教の根本聖典』(増谷文雄著)より
南伝 相応部経典 45-2後半と3 舎利弗
漢訳 雑阿含経 27-726

 かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、釈迦族のサッカラという村にあられたことがった。その時、アーナンダ(阿難)は世尊のあられる処にいたり、世尊を拝し、世尊にもうして言った。
「大徳よ、私どもが善き友、善き仲間を有するということは、これは、聖なる修行のすでに半ばを成就せるにひとしいと思うが、いかがであろうか。」
かく問われて、世尊は答えて言った。
「アーナンダよ、そうではない。そのような考えをしてはならぬ。アーナンダよ、善き友、善き仲間を有するということは、これは聖なる修行のなかばではなくして、そのすべてであるのである。アーナンダよ、善き友をもち、善き仲間の中にある比丘においては、八つの聖なる道を修学し、成就するであろうことは、期してまつことができるのである。
 アーナンダよ、このことによっても、それを知ることができるではないか。
 アーナンダよ、人々はわたしを善き友とすることによって、老いねばならぬ身にして老いより解脱し、病まねばならぬ身にして病より解脱し、死なねばならぬ人間にして死より解脱することを得ているのである。このことによっても、アーナンダよ、善き友をもち、善き仲間にあるということは、聖なる修行のすべてであると知るべきである。」

 かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なる祇孤独の園にあられた。その時、サーリプッタ(舎利弗)は世尊のもとにいたり、世尊を拝し、世尊にもうして言った。
「世尊よ、私どもが善き友、善き仲間を有するるということは、これは聖なる修行のすべて成るにひとしいと思うが、いかがであろうか。」
かく問われて、世尊は答えて言った。
「よいかな、サーリプッタよ、その通りである。善き友をもち、善き仲間にあるということは、これは、聖なる修行のすべて成るにひとしいということができる。サーリプッタよ、善き友をもち、善き仲間の中にある比丘にありては、八つの聖なる道を修め習い、これを成就するであろうことは、期してまつことができるのであろう。
 サーリプッタよ、それは、この理によっても知ることができるであろう。
 サーリプッタよ、人々はわたしを善き友とすることによって、老いねばならぬ人間でありながら、老いより解脱する。病まねばならぬ人間でありながら、病より解脱しておる。死なねばならぬ人間にして、死より解脱することを得ているのである。このことによっても、サーリプッタよ、善き友をもち、善き仲間にあるということは、聖なる修行のすべてであると知るべきである。」

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