どうも信心が頂かれない。どうもお念仏がよろこべないとなげきますが、これは一面からいえば尊い悩みであります。しかし、そこに誤解が入ってはなりません。どうも信心が頂けないということは、自分が工夫してゆくように思ったり、よろこべないということは、自分の心掛けようが足りないからと思うならば、きわどいところで道をふみはずすことになります。
信心をよろこぼうとか、はっきりさせようとか、しっかりしようとかいうように、力んでゆくよりも、すなおに法を聞く。「つれてゆくぞ」の仰せを頂いたのが信であり、つれてゆくぞよを頂いたのがお念仏である。お念仏をよろこばせていただくのが、私の生活であります。
ここでよく申させて頂きたいことは、私たちは、真理というようなものを信ずるのではないのです。むしろ生命を信ずるというべきでしょう。正しく言えば名号を信ずるのであります。
名号を頂くには、私の思案やこちらの手で加工をすることではありません。
名号は消化されきった活きた生命であります。名号を聞けばそれがひとりでに思となり、修となってゆきます。名号を頂くには「聞く」だけです。名号という「法」は、それ自身生きている完全なもの、私の手で加工したり料理したりする必要のないものですから、如実に名号をそのままお受けするということが最初であり、最後であります。如実に名号を頂いたら、名号が私を生かして下さいます。私の料理で生きるような死んだ名号などありません。
ややもすれば、私がしっかりしないと名号は生きないと申します。また私が精進して名号を生かさねばならないと思います。これが常識ですが、この常識は実は私の高あがりであります。そういうことではなく、私がすなおにその法さえ受けいれたら、ひとりでに法によって私が生かされます。だから私が名号を生かそうなどというように考えるのではなく、すなおに名号を受けいれることが非常に大切であります。名号を受けいれたら、ひとりでに信心となり念仏となります。
一般のときは、名号を聞いて、それから考えたり批判したりして信心をかまえて、それからさらに念仏というものをしぼり出す。つまり名号を聞いてそれを自分の考えの中へ入れ、これは大丈夫であると決めたときが信心であるという。その信心ができたら、その上に立って生活する。それが念仏の行である。これは私の手で加工されている。名号を受け取ってきて自分で加工する。即ち料理する。そして信心したり、念仏したりする。こういうように在来は考えていました。
ところが親鸞聖人はそのようには仰せられなかったのです。名号を頂くばかりである。名号を聞くばかりである。名号が信心になる。その信心が念仏になる。このあいだに私の計らいの加工は少しも入りません。私が加工することはいりません。小細工することがいりません。それならば私としては何かといえば、私はすなおに名号を聞かせて頂くほかはありません。すなおに聞かせて頂くところに、名号の全体を頂く。これが全部であります。
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