昨日、何十年ぶりかの知人に会いました。
知人といっても、彼女の父親のお姉さんの旦那の妹の子が私ですので、親戚の親戚という関係にあります。
(ややこしや ややこしや)
同い年で、しかも誕生月が2月なのです。
親戚の中では「ちゃん」づけで呼ばれていますので、私は「ともちゃん」です。
(気持ち悪ぅ と思った人はすみません)
実は彼女の顔さえも覚えていなかったのです。
たぶん彼女も一緒でしょう。
それでも何十年ぶりかの再会で、彼女のご主人(お医者さんです)と3人で食事を頂きながら、いろいろと歓談しました。
人生いろいろあって、ある事件によってそれまで築いていた人間関係が一瞬にして無くなってしまった一方で、何十年ぶりの知人と再会したり、まったく新しい友人ができたりします。
人生、楽観しすぎることはよくないですが、悲観しすぎることでもありません。
彼女のお子さんが、今年教育学部を受験するというので、「君たちはどう生きるか」を薦めておきました。
相変わらず近藤さんの指摘は破壊的抜群ですし、紹介される話は真実の匂いがプンプンします。機会があればお会いしてお話を伺いたく思っております。
思うにまだ続けている会員のほとんどは、
・今更自分の求めてきた道が間違いであってほしくない
・親鸞会以外の交友関係が希薄
・一切衆生必堕無間という呪縛から離れる決心がつかない
・疑わしい部分もあるが、50年以上教えを説く人が間違いであると思いたくない
という思いがあると思います。会の仕事をしている人は仕事先の心配もあるでしょう。
まだ続けている友達に何とか気付いてもらいたいのですが、力及ばず。遅々として進みません。
さて、今回は質問があり、コメントさせて頂きました。
親鸞会の本尊には南無阿弥陀仏の横に親鸞と合成複写されていますが、これは改邪鈔本の【七・本尊聖教に知識と号する者の名を記すまじき事】に反するように思います。
ところが親鸞会側は、
・これは悪知識について言われたもの
・親鸞聖人ご真筆の名号ということで「親鸞」と載せただけだ
という事でした。
果たしてそのような理由で合成複写するのがよいのか甚だ疑問です。
そこで、改邪鈔の文章の意味と、この事についての見解を教えて頂きたいと思います。既に示されている所がありましたらリンク先を教えて下さい。よろしくお願いします。
狭くとると改邪鈔の文とは意味が違いますが、広くとると同じことと言えるでしょう。
やった人の問題です。
改邪鈔本七の文の意味は
本尊や聖教に下付して下さいとお願いした人の名前ではなく、与えた人の名前を書くのはよくない。
親鸞聖人の場合は常にお願いした人の名前を書かれ、御自分のお名前は書かれていない。
最近行われている風潮にしたがえば、親鸞聖人はご自分の名前を書かれたということになるが、聖人がなされていないことをするのは間違いである。
これは「私が与えたものだから」といことで、取り返すときの口実にするのだろうが、本尊や聖教を普通の財物と同じ扱いをしていることになる。もっともやめるべきである。
となると思います。(逐語訳ではないです)
某講師がやった事なのですね。勿論会長の了解の元、やっていることでしょうが。
9講以上とやり合うには詭弁が多いので、注意しなければなりませんね。