法友通信 「罪悪観」と「機の深信」
のページに2人の会員の手紙の要約が書かれていました。
Aさんの手紙の一文
このたび、罪悪観は自力であり、目的である信心決定(二種深信)に近づけるための方便であるから、大変大事ではあるけれども、「罪悪観」をどれだけ深めても「機の深信」にはならないと聞かせていただきました。
Bさんの手紙の一文
「罪悪観」は自力・方便であり、もっと大切なのが「機の深信」が立っているかいないかの信心の沙汰である。自力からしか他力へは入れないが、幾ら罪悪観を深めても、機の深信にはならない、と教えていただきました。
声が出ませんでした。
何ですかね、これは。
「罪悪観」をどれだけ深めても「機の深信」にはならない
というのはいいですよ。
問題はその前の文。
2人とも同じことを書いていますので、これが親鸞会で教えられていることなのでしょう。
本当にびっくり仰天です。
恥ずかしいから、こういうのを書くのをやめてもらいたいです。
注:
本願寺の学者・布教使が「罪悪観は自力である」と書いたり言ったりする場合の罪悪観は、信罪福心のことをさしています。信罪福心は自力心の異名です。
上の2通の手紙の中の「罪悪観」はそういう意味では書かれていません。
百歩譲って、上の手紙の罪悪観を信罪福心と解釈した場合でも、信罪福心は方便とは言わないですね。
やはりおかしいです。
でも、思考停止で、そこが 不可思議の法 とか、思ってしまっている。
大事である!! と 言いながら 大事ではない!! と 聞こえますが。
なんのことか わからないですよね。
それなら罪悪観は信の一念で捨たるんですね。
信後は罪悪観て出てこないんだ~。
あー、だから会長は自分の言うことに従わない講師部員や特専部員を何人も何人も簡単に除名できるんですね。
浄財で会長御殿をいくつも作っても平気なんですね。
会員に迂回の善を勧めて、救いから遠ざけても平気なんですね。
息子が不倫疑惑事件起こしてもお咎めなしなんですね。そのくせ、組織を正そうと立ち上がった人達に厳罰を与えて苦しませても平気なんですね。
光戦中に会員が交通事故で亡くなっても平気なんですね。
味が気に入らないとどんぶりひっくり返しても平気なんですね。
会員が謗法罪を造り続けて必堕無間なのに、どんどん謗法罪を造らせ、救いの法を説かなくても平気なんですね。
そうかぁ。自分はそんな教え聞いてたんだぁ。離れることができてよかった~。そんな無慈悲で冷徹で、自分勝手な人間にはなりたくないですから。
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ほんとに何なんですかね???