「親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人は、いずれも名号のみを本尊とされ、絵像木像は用いなかった」
親鸞会の主張は上記のように極端だから、1つ2つ例外があると負けざるを得ないのです。
また本願寺や各真宗系を攻撃する足場が揺らぎましたね。
形像(木像絵像)の本尊も、名号本尊から転化したもので、聖道門の形像本尊とは意味が違います。
あくまでも公式の御本尊は名号本尊ということです。
(主に帰命尽十方無碍光如来の十字名号です)
しかし、「名号のみを本尊とされた」ということではありません。
蓮如上人の裏書のある絵像は36幅現存しています。
一方、蓮如上人が門弟方に下付された名号本尊は数え切れないほどで、一日200幅、300幅書かれたともあり、比較にはなりません。
御一代記聞書にもありますように、浄土真宗における名号本尊と形像本尊の意義をよく知って頂きたいと思います。
繰り返しますが、「名号を聞信する」「不来迎」という点から、名号本尊が浄土真宗の御本尊です。
しかし、それは形像本尊が「ダメ」ということではありません。
しかし絵像木像はダメということではない。
但し形式に捉われて南無阿弥陀仏の心を頂かないと、阿弥陀仏のご苦労が水泡になってしまうのですね。
『慕帰絵詞』を調べてみても判ると思いますが、この本はむしろ当時の生活や文化、出来事をかなりしっかりと
描写してる歴史的な資料としての価値が高いとまでいわれるものなので、この絵の信憑性も非常に高いだろうと言われてます
…ということが既に20年前のブックレットサイズの本(西本願寺のもの)で指摘されてるんですけど
こういう情報は目に触れないようにされるんでしょうね…