ときたま耳にすることですが、自分の罪悪がよく知られなければ、お救いは分からんということがときたまあるのです。理屈からすればなるほどと思えないこともありませんが、これは知った世界以外のものではないのです。「知った世界」と「聞かされた世界」はまったく違うものです。真宗は「聞かされた世界」のものです。知った世界は罪悪感を前提とするものですが、この知った世界をどれほど延長しても聞かされた世界には入られません。聞かされた世界は、知った世界の罪悪感に対して信機のすがたをとります。そしてこの信機は信法と二種一具となって、まことの信心のすがたをあらわすのです。