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情報有り難うございます。
歎異抄第1章には、特に誤解されやすい一節として、
しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに、悪をおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに
これを高森顕徹先生は、
ゆえに、弥陀の本願に救い摂られたならば、一切の善は無用となる。弥陀より賜った念仏以上の善はないからだ。
また、どんな悪を犯しても不安や恐れは皆無となる。弥陀の本願で助からぬ悪はないからである。
と意訳されています。
「本願を信ぜんには」を、「弥陀の本願に救い摂られたならば」と解釈する歎異抄解説書は、皆無と言われます。
ほとんどが、「弥陀の本願を信じるには」と解釈しているものばかりだそうです。
今日の浄土真宗では、「念仏さえ称えておれば助かる」と思って積極的に善に励もうとしない、ネガティブな者達ばかりであると、言われます。
「弥陀の本願を信ずるには、一切の善は無用」と解釈することから、このような真宗の堕落が始まったと言えるでしょう。
“「本願を信ぜんには」を、「弥陀の本願に救い摂られたならば」と解釈する歎異抄解説書は、皆無”
“ほとんどが、「弥陀の本願を信じるには」と解釈しているものばかり”
とありましたので、現在入手可能な種々の歎異抄解説書で「本願を信ぜんには」がどのように訳されているか、ちょっと調べました。
【本願を信じるには、信ずるためには という訳】
・歎異抄(聖典セミナー)[梯 實圓著]
本願を信ずるには
・歎異抄(ちくま学芸文庫)[阿満利麿著]
本願を信じるためには
・歎異抄(講談社学術文庫) [梅原 猛著]
この阿弥陀さまの本願を信ずるためには
・歎異抄全講読[安良岡康作著]
弥陀の本願を信じようとするに当っては
【本願を信じたならば という訳】
・浄土真宗聖典 歎異抄[本願寺 浄土真宗教学研究所]
本願を信じるものには
※註 この意味を「本願を信じているなら」とするか「本願を信じるためには」とするか
で、解釈が分れている。
・歎異抄略註[多屋頼俊著]
阿弥陀仏の本願を信じますならば
・はじめての歎異抄[山崎龍明著](『歎異抄を生きる』も同じ)
この教えに生きる者には
・歎異抄(角川ソフィア文庫)[千葉乗隆著]
阿弥陀さまの本願を信ずる人は
・<定本>歎異抄[佐藤正英著](『歎異抄論釈』も同じ)
阿弥陀仏の誓願を信ずるのであれば
・歎異抄を読む(講談社学術文庫)[早島鏡正著]
ほとけの本願を信ずる者には
・現代語訳 歎異抄[野間 宏著]
本願を信じさえすれば
・歎異抄・正信偈・和讃[池田 勇諦、中西 智海 著]
阿弥陀仏の本願を信ずる者は
・歎異抄 教行信証(中公クラシックス) [石田瑞麿訳]
本願を信ずる人には
・親鸞と歎異抄入門[大法輪閣編集部編]
この本願に目覚めたならば
・歎異抄講讃[林 智康著]
本願を信じるものには
・歎異抄講話(講談社学術) [暁烏 敏著]
本願を信じたならば
・現代語 歎異抄 いま、親鸞に聞く [親鸞仏教センター]
本願の救いに目覚めるならば
【その他】
・歎異鈔講話[瓜生津隆雄著]
本願を信ぜん信には
※「本願を信じたならば善悪は問題とならぬのである」ということではない、
との説明あり
・歎異抄を読む[緒方正倫著]
阿弥陀仏の本願を信じようとする信には
・歎異抄事辞[谷川理宣、土井順一、林智康、林信康]
阿弥陀仏の本願を信ずるからには
・講座 歎異抄[中西智海著]
この本願を信ずるからには
確かにどちらに訳すかで解釈は異なってきますが、いずれであっても本願のこころをあきらかにすることはできると思います。
(ただ、上のブログの内容は間違っていますよ)
それにしても、「皆無」「ほとんど」「ばかり」など極端な表現が多いのですが、プロパガンダ体質が感じられます。
「本願を信じるには」と解釈した場合は、往生の一段ではなく、
信の一念を表す言葉と理解して宜しいでしょうか?
その場合は、
しかれば本願を信ぜんには、(=信心決定の為には)
・「他の善」(自力)も要にあらず、→→→→→→→主語は「自分」
・「念仏」(他力)にまさるべき善なきがゆえに→→主語は「阿弥陀仏」
・「悪」(自力)をおそるべからず→→→→→→→→主語は「自分」
・「弥陀の本願」(他力)→→→主語は「阿弥陀仏」
・「をさまたぐるほどの悪」(自力)なきがゆえに→→→→→→→→→→主語は「自分」
となって、信心決定のためには自力は一切不要で、
ひとえに他力によるという意味で「捨自帰他」という解釈になる、
という理解で宜しいでしょうか?
・「他の善」(自力)も要にあらず、→→→→→→→主語は「自分」
・「念仏」(他力)→→→→→→→→→→→→→→→主語は「阿弥陀仏」
・「にまさるべき善」(自力)なきがゆえに→→→→主語は「自分」
・「悪」(自力)をおそるべからず→→→→→→→→主語は「自分」
・「弥陀の本願」(他力)→→→→→→→→→→→→主語は「阿弥陀仏」
・「をさまたぐるほどの悪」(自力)なきがゆえに→→→主語は「自分」
ここはそんなにややこしく考えなくても、「善悪を超えた救い」という理解でよろしいと思います。
また、往生の一段でなくて・・・ということではなくて、これは往生の一段です。信心の問題は往生の一段です。
本当は「信心決定するには何が要るか」などという問題ではなく、信とは何かという問題です。
「信心決定するには○○が必要だ」という言葉自体がおかしく、阿弥陀仏の本願を聞くのが信です。信を獲たことを信心決定というのであり、益が現生正定聚であり、後生は往生即成仏なのです。
そこには私のする何かが入り込む余地は全くないのです。
※第1章は、歎異抄の要、すべてこれに集約される(親鸞会でも聞きました)。
※また、第1章の親鸞聖人の御言葉をもとにして第11章が述べられているといわれます。(こちらは退会後知りました。)
※最近は、個人的に次のようにも味わっています。
※『しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。』を『信心の体は念仏(南無阿弥陀仏)』と味わう、その根拠を尋ねてみました。
※まずは、歎異抄の1~6章を教行信証教巻の「真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。」に引き合わせてみます。
●教行信証 序
『真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。』
『真宗の教を敬信』
第1条
弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。 弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと[云々]。
『真宗の行を敬信』
第2条
たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと[云々]。
『敬信』
第3条
自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。
他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。
『真宗の証を敬信』
第4条
浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。
第5条
いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。
『如来の恩徳の深きことを知んぬ』
第6条
自然のことわりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなり
※このうえで、「第1章」と「教行信証教巻」を合わせて読んでみますと、
●教行信証教巻
それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。
この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。
釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。
ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。
※第1章と(教行信証教巻)
(弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、)弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。
そのゆゑは、(凡小を哀れんで)罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。
(選んで功徳の宝[南無阿弥陀仏]を施することを致す)しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏[南無阿弥陀仏]にまさるべき善なきゆゑに。
(ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。)
※このことから『しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。』を『信心の体は念仏(南無阿弥陀仏)』と聞かせていただき、そのことを蓮如上人は、次のように仰ってくださいます。
○さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。
○一流安心の体といふ事。南無阿弥陀仏の六字のすがたなりとしるべし。
○当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。
○さて他力の信心といふ体はいかなるこころぞといふに、この南無阿弥陀仏の六字の名号の体は、阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるいはれを、この南無阿弥陀仏の名号にあらはしましましたる御すがたぞとくはしくこころえわけたるをもつて、他力の信心をえたる人とはいふなり。