∞ループ

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2009/12/03(木)
親鸞会発行の顕真(平成21年11月号)の44頁に掲載されている「法友通信」を通して、親鸞会の教義について考えてみましょう。
「法友通信」の場合、出した手紙文そのままが掲載されるのではなく、弘宣部によってアレンジされますので、教義のことが書かれている場合は、それが弘宣部=親鸞会の考えです。
ある講師部員の手紙の要約です。(強調は元々です)

「雑行」分からぬ原因
 後生の一大事を知らせることがいかに大変か。だから、釈迦の一切経の99パーセントが、因果の道理であったとお聞きしました。
 後生の一大事が問題にならなければ、「自力」も「他力」もない、全く“無力”です。これが現今の浄土真宗の実態です。
 後生の一大事助かりたいと思って、諸善を励んでいる人に、「雑行を捨てよ」と言われているのですから、この一大事が問題にならなければ、善に向かおうともしないし、「雑行を捨てよ」の真意も分かりません。
 そのために、「善を勧めることが間違いだ」「善をする必要はない」と言いだす者もいます。
 すべて後生の一大事の抜けた仏教だからだと知らされます。


分かりやすくするために、強調部分以下を言い換えましょう。(最後の文は除きます)

①インフルエンザを治したいと思って、市販の風邪薬を服用している人に、それでは治らないからタミフルを服用しなさいと言われているのです。
②だから、
③自分がインフルエンザであると自覚しなければ、市販の風邪薬を服用することさえもしようとしないし、タミフルの服用を勧める意味も分かりません。
④そのために、
⑤市販の風邪薬は適切でないよと言いだす者もいます。


文①と文③はそれぞれは意味が通りますが、①だから③ということは言えません。
①は
自分がインフルエンザであると自覚しているが市販の風邪薬をのんで治そうとしている人
について述べられています。
③は
自分がインフルエンザであると自覚していない人
についてのことです。
それぞれ違う事柄を表していますので、それを「だから」で結びつけるのは乱暴です。
インフルエンザを治してもらおうと思って医者に行った人に、「あなたはインフルエンザにかかっていることを自覚しなければならないですよ」と言う医者がいれば、完全にヤブです。
もっと言うと、「あなたは自分がインフルエンザであることが分かってからここに来なさい」と言う医者のようなものです。
そんな医者がいるはずないでしょう。

譬ですので、合わないところもありますが、
たとえ自分がインフルエンザであることを知らなくても、薬をのんで治ったならば、治ったこともインフルエンザだったということも分かる。
ということなんですね。

⑤について言えば、普通の風邪ならば市販の風邪薬でいいのですから、文そのものが不十分です。悪意があるということです。
インフルエンザと分かっているならば、市販の風邪薬を勧めることは間違いであり、服用する必要はありません。
本来はインフルエンザの患者を治すべきなのに、なぜかどうしても市販の風邪薬をのませたいようです。

元の手紙を読めば分かりますように、「阿弥陀仏」も「本願」も「南無阿弥陀仏」も「名号」も「信心」も「念仏」も書かれていません。
かろうじて「他力」という言葉はあります。
全部書けということではないですが、一つくらいはあってもいいのにとは思います。
心がかかっていないということですね。

エントリー「顕正新聞を読んで」で既に指摘したことと同じなのですが、「因果の道理→廃悪修善①→後生の一大事を知る→廃悪修善②→以下同じ」となり、「間違った因果の道理の話」というトリガーによって引き起こされた無限ループから離れられないのです。
廃悪修善①は後生の一大事を知るための廃悪修善
廃悪修善②は後生の一大事を解決するための方便としての廃悪修善
廃悪修善①と廃悪修善②は都合によってごちゃごちゃに使われます。
それで永遠にこのループから出られません。
生死を出離する前に、このループから出なければならないという何とも悲しいことになります。

会員の目的は阿弥陀仏に救われる(究極的には往生極楽・成仏、現生では信心獲得)ことではなく、「後生の一大事に驚く」ことに転化されます。しかし後生の一大事が分かりませんので、それがさらに「廃悪修善」に転化してゆくことになります。
(浄土門から聖道門への逆行とでもいいましょうか)
これでは阿弥陀仏の本願力に救われることはありません。
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この記事へのコメント
>後生の一大事助かりたい

領解文「われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へ」とはどういうことか。
蓮如上人は、「たすけ」という表現を御文章に多用されていますが、どのようなこころで仰っているのか、伺ってみました。

○[文明三年十二月十八日] 一帖目三通 漁(りょう、すなどり)
(乃至)われらごときのいたづらものを、
『たすけん』と誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、(乃至)
『たすけましませ』とおもふこころの一念の信まことなれば、
かならず如来の『御たすけ』にあづかるものなり。
このうへには、なにとこころえて念仏申すべきぞなれば、
『往生はいまの信力によりて御たすけありつる』かたじけなき御恩報謝のために、
わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念仏申すべきなり。

※『今度の一大事の後生、御たすけ候へ』
※『往生はいまの信力によりて御たすけありつる』

○[文明五年八月十二日] 一帖目七通 弥生なかば
(乃至)ふたごころなく弥陀をたのみたてまつりて、
『たすけたまへ』とおもふこころの一念おこるとき、
かたじけなくも如来は八万四千の光明を放ちて、その身を摂取したまふなり。
(乃至)
さてこのうへには、ねてもさめても、たつてもゐても、南無阿弥陀仏と申す念仏は、
弥陀にはや『たすけられまゐらせつる』かたじけなさの、弥陀の御恩を、
南無阿弥陀仏ととなへて報じまうす念仏なりとこころうべきなり」とねんごろにかたりたまひしかば、
(乃至)
いまよりのちは一向に弥陀をたのみまゐらせて、ふたごころなく一念に
『わが往生は如来のかたより御たすけありけり』と信じたてまつりて、
そののちの念仏は、仏恩報謝の称名なりとこころえ候ふべきなり。

※『今度の一大事の後生、御たすけ候へ』
※『わが往生は如来のかたより御たすけありけり』

これより『今度の一大事の後生、御たすけ候へ』は『今度の一大事の往生、御たすけ候へ』として次の御文章を読んでみます。

○[文明五年九月十一日] 一帖目十通 吉崎
そもそも、吉崎の当山において多屋の坊主達の内方とならんひとは、まことに先世の宿縁あさからぬゆゑとおもひはんべるべきなり。

※それも後生を一大事とおもひ、信心も決定したらん身にとりてのうへのことなり。
※それも往生を一大事とおもひ、信心も決定したらん身にとりてのうへのことなり。

しかれば内方とならんひとびとは、あひかまへて信心をよくよくとらるべし。それまづ当流の安心と申すことは、おほよそ浄土一家のうちにおいて、あひかはりてことにすぐれたるいはれあるがゆゑに、他力の大信心と申すなり。さればこの信心をえたるひとは、十人は十人ながら、百人は百人ながら、

※今度の往生は一定なりとこころうべきものなり。

(乃至)

問うていはく、さてかやうに弥陀如来のわれらごときのものをすくはんと、たびたび願をおこしたまへることのありがたさをこころえわけまゐらせ候ひぬるについて、なにとやうに機をもちて、弥陀をたのみまゐらせ候はんずるやらん、くはしくしめしたまふべきなり。

答へていはく、信心をとり弥陀をたのまんとおもひたまはば、

(順序を並び替えてみました)
まづ人間は五十年百年のうちのたのしみなり、=>人間はただ夢幻のあひだのことなり、
※後生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、=>後生こそ一大事なりとおもひて、
※往生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、=>往生こそ一大事なりとおもひて、

もろもろの雑行をこのむこころをすて、あるいはまた、もののいまはしくおもふこころをもすて、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして、ただひとすぢに弥陀に帰して、

※このたびの往生は治定なるべしとおもはば、

そのありがたさのあまり念仏を申して、
弥陀如来のわれらを『たすけたまふ』御恩を報じたてまつるべきなり。
これを信心をえたる多屋の坊主達の内方のすがたとは申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

※「後生をたすける」とは「往生をたすける」と教えてくださいます。
※これらの御文章は五帖のなかで初期に書かれ、
※以降は「後生たすけ」は「往生たすけ」だと当時は了解できたのでしょう。
※しかし親鸞会時代の私は「後生地獄へ堕ちる一大事、御たすけ」と聞きちがえていました。
※「地獄へ堕ちる一大事の解決」が「人生(多生)の目的」だとすれば、
※人間に生まれている現在は既に一大事を解決済みです。
※地獄界でなく人間界にいるのですから。
2009/12/05(土) 21:50 | URL | #-[ 編集]
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