前にも書きましたが、信心を理解しようとしている人がいますが、凡夫の私たちには絶対に理解できません。凡夫どころか弥勒菩薩でもできません。よく、「聞く一つ」ということを聞きますが、私が助かる道は聞く一つである、つまり聞く一つで私のお助けの解決がつくのである。だから聞けよ、聞けよと言われるのであると思っていました。これは全くの間違いであることを知らされたのであります。聞けよ、聞けよ、とか、聞く一つ、と言われることは、本当に聞かす一つということでありました。聞かす一つとは、如来の方からのおはたらきがあったのであります。
『真宗安心』(加茂仰順師)より
信心を理解しようとしている間は、信心獲得はできません。
加茂和上も言われているように、聞く一つは「聞かす一つ」であり、聞こえて下さるのです。
今まで聞いたことに、何か足して救われるというものではありません。
助けて下さいという私を助けて下さるのではなく、助かろうともしない私を助けて下さるのです。
助けるという弥陀に助けられるのです。
聞くより前のお助けです。
お軽同行も言っていますよね。
私も加茂仰順師の著書を三冊ほど読ませて頂きました。
「私が助かる道」を親鸞会では「後生地獄へ堕ちる一大事解決の道」と聞きちがえていましたが、
「私が助かる道は聞く一つである」を御文章「出家発心」で味わってみました。
「出家発心」より
『和讃』(高僧和讃・九六)にいはく、
弥陀の報土をねがふひと
外儀のすがたはことなりと
本願名号信受して
寤寐にわするることなかれ
といへり。
「外儀のすがた」といふは、在家・出家、男子・女人をえらばざるこころなり。
つぎに「本願名号信受して寤寐にわするることなかれ」といふは、
かたちはいかやうなりといふとも、また罪は十悪・五逆、謗法・闡提の輩なれども、
回心懺悔して、ふかく、かかるあさましき機をすくひまします弥陀如来の本願なりと信知して、
ふたごころなく如来をたのむこころの、ねてもさめても憶念の心つねにしてわすれざるを、
本願たのむ決定心をえたる信心の行人とはいふなり。
※加茂仰順師 「私が助かる道は」
※親鸞聖人・蓮如上人 「弥陀の報土をねがふひと」
※親鸞会時代の私 「後生地獄へ堕ちる一大事解決の道」
※加茂仰順師 「聞く一つである」
※親鸞聖人・蓮如上人 「本願名号信受して」
※親鸞会時代の私 「宿善を求めて自力一杯諸善を実践して・・・」
※加茂仰順師の「私が助かる道」は「弥陀の報土をねがふ道」「往生極楽の道」と聞こえます。