前々住上人(蓮如)、法敬に対して仰せられ候ふ。まきたてといふもの知りたるかと。法敬御返事に、まきたてと申すは一度たねを播きて手をささぬものに候ふと申され候ふ。仰せにいはく、それぞ、まきたてわろきなり。人に直されまじきと思ふ心なり。心中をば申しいだして人に直され候はでは、心得の直ることあるべからず。まきたてにては信をとることあるべからずと仰せられ候ふ[云々]。
(御一代記聞書106条 註釈版聖典1265頁)
〔現代語訳〕
蓮如上人が法敬坊に、「まきたてということを知っているか」とお尋ねになりました。法敬坊が、「まきたてというのは、畑に一度種をまいただけで、何一つ手を加えないことです」とお答えしたところ、上人は、「それだ。仏法でも、そのまきたてが悪いのである。一通りみ教えを聞いただけで、もう十分と思い、自分の受け取ったところを他の人に直されたくないと思うのが、仏法についてのまきたてである。心に思っていることを口に出して、他の人に直してもらわなければ、心得違いはいつまでたっても直らない。まきたてのような心では信心を得ることはできないのである」と仰せになりました。
あくまでもお互いに面識がある場合のことですが、仏法上のこと(特に信心のこと)を、メールで質問をして、メールの答えを待っている人がいると、私はついついこう思います。
あの質問はあまり重要ではないのだろう。
電話もあるのだから、電話で聞けばいいのに。
質問でなくてもいいのです。
心に思っていることを口に出すことがいいのです。
メールにすると文章を考えますよね。
それはよそいきです。
化粧などしないで、すっぴんがいいのです。
一番いいのは直接会うことです。
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気軽に電話できる方がうらやましいです。簡単に電話などかけられないのです。
メールの人の質問は重要でないのだろうなどど、思わないでください。
近づきがたくなります。
電話よりメールのほうが、敷居が低い。
面識があって、ほんとは聞きたいんだけど、遠慮してしまう。二の足を踏むんですよね。
そんな思いを察知して、知識(先生)のほうから、どんどん声をかけてくださればとも思います。
そうすれば聞く人も徐々にかわっていくと思います。
>心に思っていることを口に出して
※面識はありませんので、思うところを時々コメントさせていただいています。
※親鸞会では、誰か会を辞める時に、説得する言葉として
※「後生の一大事だから」または「往生は一人のしのぎなり」などを話すことが多いと思います。
※退会後の今は「往生は一人のしのぎなり。」=「後生の一大事の解決は一人のしのぎなり。」と聞いています。
※つまり「往生」=「後生の一大事の解決」ですね。
○一代記(171)
一 往生は一人のしのぎなり。一人一人仏法を信じて後生をたすかることな り。
よそごとのやうに思ふことは、かつはわが身をしらぬことなりと、円如仰せ候ひき。
※なぜかといえば、「一人(の)」を蓮如上人は御文で「自身(の)」と仰っていると受けとめているからです。
自身の往生極楽
○自問自答
信心治定してののちには、自身の往生極楽のためとこころえて念仏申し候ふべきか、
一念の信心発得以後の念仏をば、自身往生の業とはおもふべからず、ただひとへに仏恩報謝のためとこころえらるべきものなり。
自身の往生極楽
○珠数
この分にては自身の往生極楽もいまはいかがとあやふくおぼゆるなり。いはんや門徒・同朋を勧化の儀も、なかなかこれあるべからず。かくのごときの心中にては今度の報土往生も不可なり。
自身も決定し
○九品・長楽寺
肝要はただわが一宗の安心をよくたくはへて、自身も決定し人をも勧化すべきばかりなり。
自身の極楽往生
○鸞聖人・御命日
また自身の極楽往生の一途も治定しをはりぬべき道理なり。
自身の往生
○念仏行者
一つには、自身の往生すべき安心をまづ治定すべし。
自身の往生極楽
毎月両度
そもそも、毎月両度の寄合の由来はなにのためぞといふに、さらに他のことにあらず。自身の往生極楽の信心獲得のためなるがゆゑなり。
※したがって「後生の一大事の解決は一人のしのぎなり」は「往生は一人のしのぎなり。」
※つまり「一人一人仏法を信じて後生をたすかることな り。」の「後生をたすかる」は「往生」と聞こえます。
※親鸞会のときは「後生地獄に落ちる一大事をたすかる」、蓮如上人からは「往生をたすかる」と教えていただきます。