『本願寺 なぜ 答えぬ』を読んで①

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2009/12/10(木)
『本願寺 なぜ 答えぬ』は親鸞会の代表的な本です。
ある意味、ここに親鸞会教義が凝縮されているといってもいいと思います。
今までこのブログでは取り上げてきませんでしたが、関心のある人もいるでしょうから、少しだけ読んでみましょう。
今日は
(二)第一の非難──宿善の語義から──
の最後の部分を見ます。(78-79頁)

本願寺を、絶句させた質問の一つを、次に紹介しておこう。

宿善とは、遇法獲信の現在から、過去にさかのぼって、
その縁由を、喜ぶものであって、その縁由となった、過
去の善根については、これを自己の修する善である(宿
善自力説)」(回答書A P・144)
 このように、過去をふりかえって、喜ぶものが、宿善
なのに、親鸞会は、未来に向かって、求めよ、と修善を
すすめるから、間違いだ、といわれています。
 ならば、おたずねいたします。
 今年、阿弥陀仏に救われた人(獲信者)は、昨年、自
己の修した善を、ふりかえり、宿善と、喜ぶことになる。
 獲信と、よい関係にある、修善をすすめる親鸞会を、
非難する本願寺は、間違いにならないか。

 一撃で、ダウンしたほど、本願寺の反論は、ひどいものだった、ということ
だ。
 あえて、
「読むだけ、時間のムダ」
と、酷評した次第。
 しかし、もう読まない、などといっていたら、真実開顕の使命は、果たせな
い。
 自ら、シリを叩いて、先へ、進まなければならぬ。


わざわざ囲んである文章なのですが、この中の、
 今年、阿弥陀仏に救われた人(獲信者)は、昨年、自
己の修した善を、ふりかえり、宿善と、喜ぶことになる。

は、大間違いです

「私は去年はたくさん寄付をしたから、それが宿善になった救われたんだぁ。してよかったぁ。」
「私は去年はたくさんの人を勧誘したから、それが宿善になった救われたんだぁ。やってよかったぁ。」
となれば、自力が間に合うことになります。

それに・・・
救われた人は、このようには思いません。
「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」
なのです。

この『本願寺 なぜ 答えぬ』は、
分かった人が読むと面白い本なのですが、
(『歎異抄』や『安心決定鈔』とは違う意味ですよ)
分かっていない人が読むと、
「読むだけ、時間のムダ」
どころか、
「読むだけ、害悪」
です。
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この記事へのコメント
私は学生時代にこの本を読んだとき、何が書いてあるかよくわからず、それから会員を辞めるまで一度も読みませんでした。
今回取り上げられた部分を読ませて頂いて、本願寺が親鸞会・高森会長を相手にしたくなくなった理由が、大変よくわかりました。
この阿弥陀仏の本願に救われるかどうかに善が関係するというのは、ヨーロッパの宗教改革の時期に問題になった免罪符(正確にはちょっと違いますが)と、同じ考え方だと思います。
キリスト教を外道という高森会長がキリスト教が1番腐敗していたであろう時期に行った免罪符、と同じ事をしているのに、私は吐き気を催してしまいます。
2009/12/10(木) 10:05 | URL | #-[ 編集]
吐き気で終わらず、吐き出すべきと思います。
2009/12/10(木) 15:01 | URL | YGM #-[ 編集]
そんなことが書かれてあるのですか、知りませんでした。
自己のやった善をそれが宿善になって救われたと喜ぶ…それはあり得ないと思います。それでは、出離の縁あることがあった、と言っていることになるのではないでしょうか。
聴聞に関して言えば、感謝はあります。教えていただいた感謝、そういう意味での喜び。でも、浄土真宗で教えていただくことは、御文章がそうでありますように、自力は間に合わないから捨ててただ阿弥陀仏をたのみなさい、だけです。そのとおりになれば、聞いてきたことも自分のしてきたことは何もかも間に合わなかった間に合わないと知らされているのですから それで救われた、というのは違いますね…ほんとうに、どうしてか、たまたまですね…阿弥陀仏のご苦労、長い年月のお育て、慶ぶべきと思います。
2009/12/16(水) 02:16 | URL | hiromi #VkVTiyLo[ 編集]
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