因果経に関して うんちく

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2009/12/10(木)
『平家物語』には『因果経』の言葉として「欲知過去因 当観現在果」が書かれています。
(平家物語のほとんど終わりに近い「大原御幸」の文。↓に原文と現代語訳)
『日本霊異記』の記述もありますし、当時はそのように一般に信じられていたと思われます。
ただ、正確なところは、すでに何度も述べている通りです。

【原文】http://www.st.rim.or.jp/~success/heike13.html#3より
法皇、「ひとやある、ひとやある」とめされけれども、おんいらへまうすものもなし。ややあつておいおとろへたるあまいちにんまゐりたり。「女院はいづくへごかうなりぬるぞ」とおほせければ、「このうへのやまへはなつみにいらせたまひてさぶらふ」とまうす。「さこそよをいとふおんならひといひながら、さやうのことにつかへたてまつるべきひともなきにや、おんいたはしうこそ」とおほせければ、このあままうしけるは、「ごかいじふぜんのおんくわはうつきさせたまふによつて、いまかかるおんめをごらんぜられさぶらふにこそ。しやしんのぎやうに、なじかはおんみををしませたまひさぶらふべき。いんぐわきやうには、『よくちくわこいん、けんごげんざいくわ、よくちみらいくわ、けんごげんざいいん』ととかれたり。くわこみらいのいんぐわを、かねてさとらせたまひなば、つやつやおんなげきあるべからず。むかししつだたいしは、じふくにてがやじやうをいで、だんどくせんのふもとにて、このはをつらねてはだへをかくし、みねにのぼつてたきぎをとり、たににくだりてみづをむすび、なんぎやうくぎやうのこうによつてこそ、つひにじやうとうしやうがくしたまひき」とぞまうしける。
このあまのありさまをごらんずれば、みにはきぬぬののわきもみえぬものを、むすびあつめてぞきたりける。あのありさまにても、かやうのことまうすふしぎさよとおぼしめして、「そもそもなんぢはいかなるものぞ」とおほせければ、このあまさめざめとないて、しばしは、おんぺんじにもおよばず。ややあつてなみだをおさへて、「まうすにつけてはばかりおぼえさぶらへども、こせうなごん入道しんせいがむすめ、あはのないしとまうすものにてさぶらふなり。はははきのにゐ、さしもおんいとほしみふかうこそさぶらひしに、ごらんじわすれさせたまふにつけても、みのおとろへぬるほどおもひしられて、いまさらせんかたなうこそさぶらへ」とて、そでをかほにおしあてて、しのびあへぬさま、めもあてられず。ほふわう、「げにもなんぢは、あはのないしにてあるござんなれ。ごらんじわすれさせたまふぞかし。なにごとにつけても、ただゆめとのみこそおぼしめせ」とて、おんなみだせきあへさせたまはねば、ぐぶのくぎやうてんじやうびとも、ふしぎのことまうすあまかなとおもひたれば、ことわりにてまうしけりとぞ、おのおのかんじあはれける。

【現代語訳】http://kazeoto.com/oharagyokou.htmlより
「誰ぞいないか、誰ぞ人はいないのか」
静寂を破るように法皇が声をおかけになりました。けれども、お答えする者の声は聞こえてきません。小鳥の声ばかりが響いて…しばらくして、ようやく、老いた尼が一人よろよろと出てきました。
「おお、居られたか。女院はおいででいらっしゃるかな」と法皇。
「建礼門院様でございましたら、この山の上に花を摘みにいらっしゃいました」と老尼は申します。
「花を摘みにとな。そのようなこともご自分でなさるのか。お仕えする者が居ないとは…いかにこの世を捨てて仏の道にお入りになった御身とはいえ、あまりにもお労しいことよ」
と、法皇がおっしゃられますとこの尼は申します。
「五戒十善を守って生きてこられましたご果報も尽きておしまいになられたの為に、今はこのようなお辛い目にあっていらっしゃるのでございます。ですが、この現状は身を捨てる修行であるとお思いになっております。どうして御身を惜しまれることがございましょう。お釈迦様の伝記とされています因果経』には過去の因を知りたいのであれば、現在うけている果報を見よと説かれております。女院様も過去・未来の因果の道理をお悟りなさいましたら、少しもお嘆きになるようなことはございません。悉達太子は十九歳で伽耶城を出て、檀徳山のふもとで木の葉を綴りあわせたもので肌を隠し、峰に登って薪をとり、谷に下って水を汲みという難行苦行を重ねた結果、その功によって、ついに御仏の悟りをひらかれました」
 法皇はこの言葉に尼の様子を改めてご覧になりました。老尼は絹か布かも見わけのつかないボロのようなものを継ぎ合わせて着ております。このような身なりであのようなことがすらすら口をついてでてくるとはと不思議に思われて法皇は「そもそも、そちは如何なる者ぞ」と問われました。
すると尼は思いがけない法皇の訪れに緊張していた糸がきれたのでしょうか、さめざめと泣くばかりでお返事もできない様子でしたが、やがて、なんとか涙をこらえるようにしてやっと口をひらきました。
「申し上げますにはあまりにも畏れ多いことでございますが、わたくしは今は亡き少納言入道信西の娘の阿波の内侍と申した者でございます。母は紀伊の二位でありまして、かってはあれほどに御身近くお仕えし大切にしてくださいましたものを、お見忘れなさいますとは我が身の衰える程が思い知らされまして、今さらながらなんとも致し方のないことでございます」
袖に顔を押し当てて涙をこらえきれない様子には法皇もお供の者たちも気の毒で見ていられない思いがしました。
法皇は涙をこらえきれないように
「そうであったか。お前は阿波の内侍…遠い昔のことで思い出すこともなかったが、このようにして会うとはただただ夢のようだ」
と申され、お供の公卿や殿上人も「不思議な尼だと思ったが、まことにもっともなこと」と口々に囁きあわれるのでした。

【人物に関する補足】
「少納言入道信西」は藤原通憲のことです。明遍(法然聖人の弟子)や澄憲(聖覚法印の父)の父親で、後白河法皇の側近でしたが平治の乱で殺されました。
「紀伊の二位」は明遍の母親ですので、「阿波の内侍」は明遍の実姉か実妹に当たります。
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