人生の目的・多生の目的

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2009/12/24(木)
 親鸞会では「人生の目的」という言葉をよく使います。使ってはいけないということではないですが、使い方がおかしいと思います。
 親鸞会では「何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか、なぜ生きねばならないのか」と説明します。
 問題はこの中の「なぜ生きねばならないのか」というフレーズで、この言葉があるために「平生業成」でなくなってしまう危険があるのです。
 言葉そのものは間違いではないように感じますが、これ聞いた人は、人生の目的を「今から死ぬまでの目的」と考えます。さらに「人生の目的どころではなく多生の目的なのだ」と聞くと、達成を先に延ばします。多くの親鸞会の会員が信心決定をあきらめているのはそのためです。ほとんどの会員は「信心決定は自分には無理だが、教えられることは悪いことではないから、その通りやっていれば次生・次々生には救われるかもしれない」と浄土真宗とは似ても似つかぬ考えを持っていると感じます。
 「多生の目的」という言葉を使うのも結構ですが、それは振り返ってのことであり、先に延ばすものではありません。

会員の頭の中を図示しますと、
図①
 [生まれて来た時]→→[今]→→(人生の目的)どこかで達成できれば万々歳
   →→[死] 達成できなければ持ち越し(多生の目的)→→[多生]


しかし、本来はこう考えるべきです。
(あくまでも同じ言葉を使ってのことです)
図②
 [過去](多生の目的)→→[生まれて来た時]
   →→(人生の目的)[今][死]〈現生正定聚〉
     →→往相→→[死]〈往生即成仏〉→→還相


「人生の目的」「多生の目的」が書いてある位置が違います。
人生の目的は今の問題であり、今は常に死と触れ合っているということをあらわしたかったのです。
なぜ、図①に「現生正定聚」「往相」「往生即成仏」「還相」の文字を書かなかったというと、図①の考えをしていては救われないからです。
(うまく書けませんでしたが、分かって頂けましたでしょうか)
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この記事へのコメント
よくわかります。人生と言ったとき、常に今が臨終で今この瞬間という意味ならいいですが、人生50年とか80年とか使われるような意味で幅をもたせてとらえると、死ぬまでの間のいつか、となってしまいます。

一応はただいまの救いとは言っても、今ということが死ぬまでにいつかあるのだ、とそこで先に置いて、その今となるためには後生が苦になるとか、何か知らされてからとか、条件をつけますから、そのためには頑張ったらいいんだ、頑張らずしてなにが分かるのか、という考えのようです。

しかし、それは自分が頑張ったからと言って後生が苦になるものではありませんから、もっともっとと頑張れば頑張るほど疲れてあきらめに陥り、しかしそれは辛いことですから、そこで、多少の目的だからそんなできるものではないんだ、人生の目的を知らされていることが素晴らしいことなのだ、知らされて求道しているということが何より素晴らしい、と有り難い心を育てて安心して、そこに座り込んでしまうのではないかと思います。
2009/12/24(木) 10:03 | URL | hiromi #VkVTiyLo[ 編集]
わかります。

会長はよく「30年、40年聞いてわかるものではない」と言います。私は何度も聞きました。

これを聞いて「そうなのか~(´Д`) よーし、それを今聞くぞ!」と思う会員はいるでしょうか?

そう聞かないといけないのかも知れませんが、会員は仕事に家庭に聴聞にと疲弊しています。

そうして頑張って頑張って聴聞に来たのにこのように言われたら、「今は無理でもやがてわかる時があるに違いない」と思って自分を慰めるしかないのではないでしょうか?

しかし、若い人はこれで慰められるかも知れませんが、70才80才の方などは「自分にはとても無理だ」と今生ただ今の救いをあきらめてはしまわないでしょうか?

あの縦と横の線と人形の図がいけません(>_<)
あの図は、自分で右から左へ進んで行かねば助からないように思わせます。

最近「信仰が進む」と彼らは言いますが、進むということから救いは先で、今ではありません。

自分の都合でこうもねじ曲げられる会長は正気とは思えません。懺悔して改めないようでは、決して見過ごすわけにはいきません。
2009/12/24(木) 11:06 | URL | 真偽検証 #-[ 編集]
>あの縦と横の線と人形の図がいけません(>_<)

今雑行を捨てて救われるにはどうしたらいいのか知りたくなって、進めとしか言われなくて今救われたいなどと言える雰囲気でもなくて、教えてくれる人もいないようで、他に聞きに行くのならやめないといけないのかなと思っていたとき、

「あの縦と横の線を書いて説かれるのは高森先生だけ」
「その高森先生から三願転入の教えを聞かなければ救われない」←??

と言われて、やっぱりだめだあ…と失意のまま一人離れたことを思い出しました。
2009/12/24(木) 18:43 | URL | hiromi #VkVTiyLo[ 編集]
近藤先生、いつも明快な説明、ありがとうございます。
親鸞会で言うところの「横の線」、「人生の目的、多生の目的」、「三願転入」、「諸善万行」、「宿善」、「善知識」、変な定義で刷り込まれてしまってるので気にしない、忘れるようにしてます。
2009/12/25(金) 00:49 | URL | 皆友 #X2UuH8HA[ 編集]
>「あの縦と横の線を書いて説かれるのは高森先生だけ」

大沼法龍氏がオリジナルかどうかは知りませんが
大沼さんの真似をしたのではないかという噂を聞いたことがあります。
縦横の線が載っている大沼さんの著書もあるようです。
2009/12/25(金) 23:14 | URL | 元S会会員 #-[ 編集]
大沼さんの場合は人が書いていないと思います。
線で左に真実を書き、右に方便を書いています。
で、縦の線は一念です。

人の絵が問題です。
2009/12/26(土) 07:17 | URL | #-[ 編集]
大沼さんは説法の達人だと思います。本を読んだだけで、心の琴線に触れる話をしていたことが伝わってきます。喜び・悲しみ・不安・怒りなどの感情のヒダを刺激されるので聞きながら「そ~だ。そ~だ。」と唸るイメージが浮かんできます。これこそ説法上手で名をはせた大沼さんの真骨頂だといえます。

ただ、親鸞会会長が真似たかもしれない大沼さんの三願転入について疑問もあります。
長くなって恐縮ですが、文化時報社が主催した東西本願寺布教使の信者投票番付けで大沼さんが横綱になるところから始まる著書「光輪」より引用しました。

28 三願転入
祖師聖人は化土巻に、十方衆生の入信の道程を三願転入を以て指示して居らるる。
(三願転入の御文)

※次の表現が、まさに大沼さんの真骨頂である感情を刺激する言い回し。

然るに浄土真宗に流れを汲む道俗は他力廻向の言葉に誤魔化されて実地の求道を忘れ、唯観念の遊戯に終って、他力が無力に成って居る。(中略)法龍の腹は定散の自心に迷うて金剛の真心に昏い、第二十願の法頓根漸の自惚道俗に対して真仮の分際を明瞭に説示しようと努力して居るのだ。無帰命安心に成って居るのが可愛相だから機受の信相を明らかにして上げるのだ。死後の往生のみを夢見て居るから現生不退の有る事を教えて上げるのだ。観念の遊戯ばかりして居るから実機が流転するぞと突いて上げるのだ。

※親鸞会の講師は十九願の入口にも入れないそうですが、大沼さんは比較的やさしいのでしょうか。第二十願の入口に立って居るとのことです。

三経、七祖、祖師の著述が皆三願転入の意味で真仮の分際を鮮に説いて有るのに頭だけは第十八願の積りで自惚れて居るが、腹は第二十願の入口に立って居るのだ。

(中略)
後の図に依って説明すれば第十九願の開説が観無量寿経、これを善導大師は要門と教え、
(中略)
この桁の人達は、善根功徳を修して居ると思って居るけれども、浄土往生の資助に使うから之を第十八願から見て雑行を雑修していると選捨するのである。
(注)[雑行・雑修の説明あり]

※次の諸善の勧めが、親鸞会と同じではないかというのが疑問です。

合点では通ってはいけない。実際に修してみよ。弘法大師の所謂「名利の為に千金を投出すは鬚を撫でるよりも易く、慈悲の為に一銭投出すは生爪を抜くよりも難しい」の言葉の如く、実際、名誉を得る為か、利益を得る為には湯水のように使いながら、慈悲の涙に注がない、善根を積まずに果報の来る筈がない。失敗だらけに気がついた時、自力の善根では立派な証果は得られないと気がついた時、第二十願の門に入るのである。

第二十願の開説が阿弥陀経、(中略)
第十八願の開説が大無量寿経、(中略)

※以下の表現も、心の琴線を揺さぶる説法達人大沼さんの真骨頂。

真宗の道俗よ、自惚れが強いのだ、他力が無力に成って居るのだ。其儘が我儘になり、唯が槍放しに成って居るのだ。易い易いで誤魔化されなさんな。合点なら易いが実地となれば難しい。しかし苦抜した後は易いと言う言葉までいらない易さだ。真宗の人人よ根本から間違って居ないか、基礎に狂いが有るから、完成しないのだ。聖道門は易信難行であり、浄土門は難信易行が宗の据りだ。難信難行の宗旨もなければ易信易行の教えもないのだ。
(略)
今日のこの日は再び来ないのだ。人生受生の甲斐が有ったか。世間の人様の御恩に報いたか。そんなすさんだ生活で仏様に申訳が有るか。
十方法界我物なり。感謝の言葉も南無阿弥陀仏。懺悔の言葉も南無阿弥陀仏。

※第二十願の門に入るのは

○大沼さん
合点では通ってはいけない。実際に修してみよ。弘法大師の所謂「名利の為に千金を投出すは鬚を撫でるよりも易く、慈悲の為に一銭投出すは生爪を抜くよりも難しい」の言葉の如く、実際、名誉を得る為か、利益を得る為には湯水のように使いながら、慈悲の涙に注がない、善根を積まずに果報の来る筈がない。失敗だらけに気がついた時、自力の善根では立派な証果は得られないと気がついた時、第二十願の門に入るのである。

○親鸞聖人
愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。

※どうしても同じように聞こえません。ここが疑問です。
2009/12/26(土) 19:42 | URL | 元S会会員 #-[ 編集]
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