たすけたまへとたのむの出処

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2010/01/06(水)
タノムタスケタマヘ」について書いていますが、今日は稲城師の文を引きます。
非常に大切です。

『救済論序説』(稲城選恵師)より 長いのでまず前半を書きます

「たすけたまへとたのむ」の用語は『御文章』にはしばしば出されているが、この言葉は『御一代記聞書』一八八条には
「聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせら れ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。 」(真聖全 歴代部五七七頁)
とあり、この言葉がご再興の言葉といわれ、『御文章』を一貫して最も重要であることが知られる。しかし御再興は多くの人は本願寺教団の再興の如く思われるが、蓮如上人までは本願寺よりも他派の仏光寺や高田派が勢力があったといわれ、教団の復興が再興ではない。宗祖聖人の教義、浄土真宗の教義を一言にしてつくされた言葉といわれるのである。しかし江戸時代に至り、この「たすけたまへとたのむ」の誤解により、本願寺未曾有の法難が生じたのである。即ち本如宗主の時の三業惑乱である。それ故、この言葉が何故、御再興の言葉といわれるかを明らかにしなければならない。まずたすけたまへの出処を求めると、現代までの多くの学者は法然上人の『黒谷上人法語』―二枚起請―に
「……阿弥陀仏の悲願をあふぎ、他力をたおみて名号をはばかりなく唱べきなり。これを本願をたのむ…憑…とはいふなり。すべて仏たすけたまへと思て名号をとなふるに過たることはなきなり……」(真聖全 拾遺部上四五頁)
とあり、更に法然上人の門弟、隆寛律師の『後世物語聞書』にも
「……たとひ欲もおこりはらもたつとも、しづめがたくしのびがたくは、ただ仏たすけたまへとおもへば、かならず弥陀の大慈悲にてたすけたまふこと、本願力なるゆゑ……」
とある。これらの文を文証として出されている。たのむも既述の『二枚起請』には
「阿弥陀仏の悲願をあふぎ、他力をたのみて名号をはばかりなく唱ふべきなり。これを本願を憑とはいふなり……」
とあり、たのむは法然上人も随所にいわれているが、『和語燈録』巻二にも
「……他力といふは、ただ仏のちからをたのみたてまつりるなり。……」(真聖全 拾遺部上六二二頁)
とある。親鸞聖人もしばしば『教行信証』、その他、和語の聖教にも出されている。
まず『教行信証』の上でみると、
①行巻の六字釈 帰命の帰説の左訓に「ヨリタノムナリ」とある。
②行巻、行信利益の文 「仰いで憑むべし……」
③行巻 元照律師の引文「須憑他力」
④信巻末『涅槃経』引文の結尾「難化の三機、難治の三病者憑大悲の弘誓……」
とあり、たのむは憑の字を多く用いられている。更に和語の聖教にみしばしば用いられ、今、二、三の文を出すと、
①高僧和讃曇鸞讃 「本願力をたのみつゝ」
②正像末和讃誡疑讃 「善本徳本たのむひと」
③正像末和讃誡疑讃 「仏智の不思議をたのむべし」
④一念多念証文 「自力といふはわがみをたのみ」
⑤唯信鈔文意 「本願他力をたのみて」
⑥末灯鈔 「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」
 これらの宗祖の用いられているたのむは現今用いられているような「お願いする」という意味は全くみられない。所謂あてにすることを意味する。但し「行巻」の帰のたにむの和訓は帰の字義は「説文」には女嫁なりとあり、女性が一度嫁入りすると、もう二度とわが家に帰ることの出来得ないことを意味する。仰せから逃げることの出来得ない身になる、悦服することをいう。いずれにしても宗祖の上では現在用いられているようなお願いするという意味は全くない。
 次に蓮如上人の上でたのむの意をみると、六字釈の南无、帰命の和訓とされる。『御文章』五の九にも
「……これによりて、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに……」(真聖全 歴代部五〇六頁)
とある、南无はたのむであり、更に帰命の和訓である。しかし、たのむの意は六字釈の場合と別義のものもある。蓮如上人の時代のたのむは現在用いられているような「お願いする」という請求の意味には用いられていない。恐らく現代用いられている請求の義は江戸時代からではなかろうか。蓮如上人の教学に最も関係の深い浄土宗一条流の『三部仮名鈔』にもしばしばたのむは用いられているが一度として現代用いられているような請求の義はない。すべてアテニスルの意である。この意味が当時の一般に用いられていたものと思われる。それ故、蓮如上人の『御文章』八十通にも五ヶ所ほど、あてにする意で用いられている。
①一の四「……かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(御消息・一意)といへり。」
②一の十一「……まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。」
③二の三「末代われらごときの在家止住の身は、聖道諸宗の教におよばねば、それをわがたのまず信ぜぬばかりなり。 」
④二の七「……それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。……」
⑤二の九「……このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。……」
とあり、この五通の内容をみると、現代用いているようなお願いするという義とは異なる。
 それ故、たのむの当時の意はアテニスルという意味であり、請求の義は全く存しない。既述の如く『御文章』に最も関係の深い一条流の『三部仮名鈔』にも一ヶ所としてたのむを請求の義には用いていない。更にたのむをアテニスルという意味も「一心に弥陀をたのむ」という場合はその意を異にする。というのは弥陀の法は未現前の彼方におかれているものでないからである。古来より先哲は現前の仏勅という言葉を用いられている。それ故、たのむは憑託の義である。このたのむの語義は「岩波」『古語辞典』によると―七九六頁―第一に次の如くある。
「全面的に信頼して相手の意のまゝにまかせる……」
とある。

引用はここまで。

更にたのむをアテニスルという意味も「一心に弥陀をたのむ」という場合はその意を異にする。というのは弥陀の法は未現前の彼方におかれているものでないからである。古来より先哲は現前の仏勅という言葉を用いられている。それ故、たのむは憑託の義である。
というところが大切です。
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