『救済論序説』(稲城選恵師)からの後半部分です。
次にたすけたまへの用語を『御文章』にはしばしば出されているが、既述の如くこの言葉がご再興の用語となっている。蓮如上人はこの用語は既述の如く、法然上人や劉寛律師によられてはいないようである。
(中略)
しかればこのたすけたまへの用語は蓮師は何れによられたものであろうか。
(中略)
蓮如上人の『御文章』に最も影響を与えたのはこの(浄土宗一条流の)『三部仮名鈔』といわれる。
「たすけたまへ」もまさしくこの『三部仮名鈔』をうけたものといわれる。
(中略)
(蓮如上人は)この一条流のたすけたまへをそのまま(用語はそのまま、意味は逆に)用いて浄土真宗義とされたのである。というのは『御文章』の上ではたすけたまへを帰命の和訓とされている。八十通の『御文章』の中で、帰命の和訓には三つある。即ち「たのむ」と「たすけたまへとたのむ」と「たすけたまへ」である。たすけたまへを帰命の和訓とされているのは五の十三通―無上甚深の章―には
「それ帰命といふはすなはちたすけたまへとまうすこゝろなり」
とあり、『帖外』一三一通にも
「また帰命といふはたすけたまへと申すこゝろなり」
とある。更に「たすけたまへとたのむ」は四の十四通には
「帰命といふは衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこゝろなり」
とある。それ故、たのむもたすけたまへも全く同義である。等しく帰命の和訓である。帰命は宗祖の上では「本願招喚の勅命」もあるが、蓮師の上では『尊号真像銘文』にあるがごとく
「帰命とまふすは如来の勅命にしたがひたてまつるなり」
とある信順勅命の義である。
しかるに一つのたすけたまへが請求にも信順にも用いられることは、この私が先行するとたすけたまへは、まさしく請求の義となり、逆に仏のたすけたもう法が先行すると無疑信順の義となり、宗祖の帰命の義となるのである。この転換に注意すべきである。特に「たすけたまへとたのむ」の「と」の一字は現代でも用いられている「二度と再び」の「と」といわれ、前句と後句との同一なることを意味するものといわれる。それ故、「たのむ」も「たすけたまへ」も等しく帰命の和訓になっているのである。しかも特に注意すべきはたすけはたへはこの私が先行すると鎮西義の如く請求となり、逆にこの私が後手になるとたのむと同義になるのである。ここに真宗教義の根本義を明らかにされたのである。
〔訂正記録〕
H22.2.2
『三経仮名鈔』⇒『三部仮名鈔』
※本文訂正済みです。