「宿善は待つにあらず、求むるものなり」という言葉についての考察

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2009/03/26(木)
昨日ある方とお話しておりましたら、
「“宿善は待つにあらず、求むるものなり”ですよね?」
と言われました。
私もかつてはそのように思い、他の人にも話しておりましたので、初めて聞いた言葉ではないのですが、重要な問題ですので、考えてみたいと思います。
(こういう疑問を起こすことは大切ですよね)

宿善については、これまでいたる所で何度も議論されておりますので、このようなブログで議論を展開するのは荷が重過ぎますし、議論してもおそらく、過去と同じ展開になると予想されます。
(もともとこのブログは議論するためのブログではございません)
ただ言えることは、先の「宿善は待つにあらず、求むるものなり」という言葉は、親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人のいずれの著作にもありません。
少なくとも私は読んだことがありません。

今日は、「宿善は待つにあらず、求むるものなり」という言葉と同時に使われることが多い蓮如上人の次のお言葉について考えてみたいと思います。

一 「時節到来という事、用心をもしてその上に事の出来候を、時節到来とはいうべし。無用心にて事の出来候を時節到来とはいわぬ事なり。聴聞を心がけての上の宿善・無宿善ともいう事なり。ただ信心を聞くにきわまる事なる」よし、仰せのよしに候。
(蓮如上人御一代記聞書105or106)

普通はここで「時節到来」に譬えられているのは、「信心獲得」「宿善開発」のことだと思います。
次の「用心をもしてその上の」に当たるのが「聴聞を心がけての上の」に当たるのだろうと思います。
そして次の「事の出来候」は、やはり「信心獲得」「宿善開発」のことだと思います。
最初の文はこれで何となく意味が通る気がします。

最初の一文は「信心獲得というのは、聴聞を心がけての上で、信心獲得することを、宿善開発というのだ」という意味になります。

次の文「無用心にて事の出来候」にまいりましょう。
「無用心にて」の意味は、第1文から類推しますと「聴聞を心がけないで・・・」といった意味になるでしょう。
すると次の「事の出来候」はどういう意味なんだろう?
素朴な疑問が生じます。

もう一度まとめて言いますと、
第1文の意味を
「真剣に聴聞していったら、宿善が厚くなって、信心獲得する」ととった場合、
第2文は
「真剣に聴聞しなかったら、・・・・・・・・、信心獲得する」
といった具合に、意味をなさなくなるのです。さらに「『事の出来候』を時節到来とはいわぬことなり」と続きますから、「『真剣に聴聞しなかったら・・・信心獲得する』を信心獲得とはいわないのだ」という意味になり、さらに意味をなさない文章となります。

そもそも、ここでは宿善・無宿善ということが語られているのですから、第1文の意味をさらに修正して
「真剣に聴聞していったら、無宿善の人も、宿善が有るようになって?、信心獲得する」
とでもすべきかもしれません。
いずれにせよ、第2文の意味は分かりません。

もう一度蓮如上人のお言葉をよく読んでみましょう。
ここで話題になっていることは
1.時節到来ということ
2.宿善・無宿善ということ
3.ただ信心を聞くにきわまるということ
の3つです。
はたして、この3つは無関係なことなのでしょうか?

大胆な意訳かもしれませんが、次のようには読めませんでしょうか?

「宿善・無宿善」ということは、私・貴方が信心獲得したいという気持ちが起きて、仏法を聞きたいと心がかかって始めて問題になるのです。
全く仏法とご縁の無い時は、信心獲得したいという気持ちが起きるはずがありませんから、「仏法を聞きたい」とも「仏法を聞きたくない」とも思いませんので、そもそも「宿善・無宿善」ということは問題にならないのです。
信心獲得したい、聞き抜きたいとい気持ちが起きるかどうか、それが「宿善・無宿善」ということなのです。
ただ信心獲得は聴聞(弥陀の本願を聞く)一つです。

(上記の意味では、宿善を求めるものという意味にはならないですね)
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タグ : 宿善 時節到来

この記事へのコメント
>一 「時節到来という事、用心をもしてその上に事の出来候を、
>時節到来とはいうべし。無用心にて事の出来候を時節到来とは
>いわぬ事なり。聴聞を心がけての上の宿善・無宿善ともいう事なり。
>ただ信心を聞くにきわまる事なる」よし、仰せのよしに候。
>(蓮如上人御一代記聞書105or106)


私個人の見解ですが、次のように味わってみたいと思います。


「時節到来という事、用心をもしてその上に事の出来候を、時節到来とはいうべし。

(私見)
このたび極楽往生を遂げんとすれば、信心をして、その上にて
弥陀の光明に摂取されたら、必ず極楽へまいるべし。


無用心にて事の出来候を時節到来とはいわぬ事なり。

(私見)
信心なしで往生できると思うことは、往生かないがたし。


聴聞を心がけての上の宿善・無宿善ともいう事なり。
ただ信心を聞くにきわまる事なる」よし、仰せのよしに候。


(御文)
おほよそ当家には、一念発起平生業成と談じて、
平生に弥陀如来の本願のわれらをたすけたまふことわりをききひらくことは、
宿善の開発によるがゆゑなりとこころえてのちは、わがちからにてはなかりけり、
仏智他力のさづけによりて、本願の由来を存知するものなりとこころうるが、
すなはち平生業成の義なり。

2009/03/26(木) 22:54 | URL | 同行c #-[ 編集]
一 「『時節到来』という事、
用心をもしてその上に事の出来候を、『時節到来』とはいうべし。
無用心にて事の出来候を『時節到来』とはいわぬ事なり。
聴聞を心がけての上の『宿善・無宿善』ともいう事なり。
ただ信心を聞くにきわまる事なる」よし、仰せのよしに候。
(蓮如上人御一代記聞書)

私も個人的味わいですが、述べてみたいと思います。

『時節到来』=『宿善・無宿善』(=信心獲得(したかどうか))
と読めるのではないかと思います。

信心獲得は無用心に何もせず待っていてできるというものではない。
聴聞を心がけて求めた人に信心獲得ということがあるのだ。
ただ信心を聞く一つで救われるのだよ。
(私見です)

頑張ってあえて「宿善は待つにあらず、求むるものなり」の意で読んでみました。
2009/03/26(木) 23:40 | URL | K #-[ 編集]
K様

Kさんの読まれ方も基本的には同じで、「宿善を求める⇒宿善が厚くなる」という考えを入れなくても、いいですよね。
「信心獲得を求めている」という文章ですから。
2009/03/27(金) 06:08 | URL | 近藤智史 #-[ 編集]
第二文の意味はわかりませんか?
私はこのような人(無用心にて事の出来候)を目のあたりにしていますので、よくわかりますよ。
2009/03/27(金) 13:37 | URL | 敢えて苦言を呈す #JalddpaA[ 編集]
なるほど。
宿善が厚くなるという段階はないのですね。御一代記聞書の御言葉もそのように書かれているのが分かりますね。
今まで分かっていませんでした。
有難うございました。
2009/03/27(金) 23:04 | URL | K #-[ 編集]
「用心」と言われていることからすると、信心決定を、獲信前の三定死の行人に弥陀の呼び声が聞こえて救われる、という側面から捉えた表現と見るのが適当である。訳せば、

弥陀の救いとは、三定死に備えて日頃から聴聞をしていてこそ、そのまま来いの呼び声を聞くことができるのである。三定死に備えての聴聞なくして弥陀の呼び声を聞く、などはありえないことである。
聴聞を心がけて備えている者にこそ、自分は宿善の者か無宿善の者か、時節到来が果たして訪れるや否やが、本当に問題になってくるのだ。
信心を得るには正しい信心とは何かを聞いていく、そして最後聞き抜けるかどうか、宿善の厚薄は、つづまるところそれひとつで、明らかになる。

と読める。聴聞の一筋道が、宿善求める道であり、「宿善は待つにあらず、求むるものなり」を語られていると言える。
2009/04/01(水) 11:41 | URL | 大願寺 創 #-[ 編集]
五重の義に重ねて、読んでみました。


>「時節到来という事、用心をもしてその上に事の出来候を、 時節到来とはいうべし。
>無用心にて事の出来候を時節到来とは いわぬ事なり。



「時節到来」
=「極楽に往生する時節到来」

「用心」
=「弥陀に帰命して他力の信心をえたる/われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしる」

「事の出来候」
=「われらが往生を弥陀如来の定めましましたまへること」



五重の義

それ、当流親鸞聖人の勧化のおもむき、近年諸国において種々不同なり。これおほきにあさましき次第なり。


そのゆゑは、まづ当流には、他力の信心をもつて凡夫の往生を先とせられたるところに、
=まづ当流では、「用心」をもって「事の出来候」の先とするところを、

その信心のかたをばおしのけて沙汰せずして、
=その「用心」を沙汰しないで、

そのすすむることばにいはく、「十劫正覚のはじめよりわれらが往生を弥陀如来の定めましましたまへることをわすれぬがすなはち信心のすがたなり」といへり。
これさらに、弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。

=十劫正覚のはじめより「事の出来候」をわすれないのが「用心」だと勧めている。が、これは「無用心」である。

さればいかに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることをしりたりといふとも、
われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしらずは、極楽には往生すべからざるなり。

=十劫正覚のはじめより「事の出来候」を知っていても、「用心」しなければ、「時節到来」しない。



>聴聞を心がけての上の宿善・無宿善ともいう事なり。
>ただ信心を聞くにきわまる事なる」よし、仰せのよしに候。


またあるひとのことばにいはく、
「たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、
このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と[云々]。
これもうつくしく当流の信心をえざる人なりときこえたり。
そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、
ひとをすすむべきばかりなり。これによりて五重の義をたてたり。
一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。
この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。
されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。
宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。
しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、
おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

2009/04/02(木) 23:23 | URL | 同行c #-[ 編集]
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