『最要鈔』に、
信心歓喜乃至一念のとき即得往生の義治定ののちの称名は仏恩報謝のためなり。さらに機のかたより往生の正行とつのるべきにあらず。
とあり、『口伝鈔』には、
されば平生のとき、一念往生治定のうへの仏恩報謝の多念の称名とならふところ、文証・道理顕然なり。
と示され、そのほか蓮如上人の『御一代記聞書』『御文章』などにしばしば述べられてあります。
「称名」とは第十八願の上に「乃至十念」とある相続の行のことであって、本願の行者が信心を得たる後に口に南無阿弥陀仏と称える声のことであり、「報恩」とはこれを称える心もちはその称名の功を往生の因とするのではなく、ただ広大な仏恩を喜ぶ心のほかなきことをいうのであります。
信心正因の義より称名報恩の義が出てくるのであるから、称名報恩ということはいよいよ信心正因を明らかにするのであります。
したがってこれは第十九願に「発菩提心修諸功徳」といい、第二十願に「係念我国植諸徳本」という方便両願の行とは、本質的に異なることをあらわすのであります。
本願成就文の「乃至一念」の語が信心正因の義を決定するのであるから、称名報恩の義もまたこの文より来るのであります。成就文の「乃至一念」の一念は、「即得往生」の即と照応して信の一念に往生の定まることをあらわすのであります。したがって信後の称名は往生の因に関係なく、ただ仏恩報謝の行業なることがあらわれてくるのであります。
本願の「乃至十念」の称名と成就文の「即得往生」の即の義とを対映すると、信因称報(信心正因称名報恩)の義が出てくるのでありますが、これを七高僧のお釈の上で見られるのが龍樹菩薩の『易行品』弥陀章の釈意であります。かの弥陀章の文のはじめ長行においては第十八願の意を述べて、
阿弥陀仏の本願はかくのごとし、「もし人われを念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得」
とあって、信心と称名とを出されてあるが、次の偈頌には信心のみをあげて称名を出さずに、
人よくこの仏の無量力威徳を念ずれば、即時に必定に入る。このゆゑにわれつねに念じたてまつる。
とあります。この「即時に必定に入る」という文には信心をもって正因とし、称名はその後の感恩の行事ということがあらわれています。そこで宗祖聖人は正信偈に、
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩
とのべられるのであります。
第十九願に「修諸功徳」とある諸行も、第二十願に「植諸徳本」とある念仏も、諸行と念仏との別はあっても、いずれも己の行功を往生の因にあてがう自力の願生であります。故にそのつとめる行業には報恩の義はありません。このゆえに知恩報徳は第十八願の行者の上にのみ語り、しかもこれを現生の利益とするのであります。
『信文類』に第十八願の行者について、現生十種の益を示されてあります。その第八が知恩報徳の益であります。これに対して方便両願の行者には知恩報徳の義のないことをのべて、『真仏土文類』の終りには、
真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。
といい、また『化身土文類』に第二十願の行者の過失をあげて、
まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆゑに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。…中略…」といへり。
とあります。『和讃』の中にも第二十願真門の自力念仏の行者を誡めて、
仏智の不思議をうたがひて
自力の称念このむゆゑ
辺地懈慢にとどまりて
仏恩報ずるこころなし
とも示されてあります。
ところで報恩ということはただ称名ばかりに限るのではなく、信心決定後の所作は、すべて知恩報徳の行事であります。『化身土文類』に、
ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。
とあり、『和讃』には、
仏慧功徳をほめしめて
十方の有縁にきかしめん
信心すでにえんひとは
つねに仏恩報ずべし
とあるごとき、著書弘伝などみな報恩のこころより為すことが示されてあります。すなわち身・口・意の三業の所作すべて報恩の為なりとされるのであります。かくのごとく身業の礼拝、口業の讃嘆、意業の憶念、みな信後報恩となるのでありますが、殊にいまこれを口業の称名において語るのは称名をもって代表するからであります。
ところで称名をもって代表するというのは、本願の「乃至十念」にもとづくのであります。本願の乃至十念を称名において語って信後相続の行とすることは、さきにあげた『易行品』の文以下に明らかであります。
乃至十念の念仏は、あるいは正定業と談じ、または報恩の称名といいます。正定業というのは行者の口より出てくる称名は、広大な如来の慈悲すなわち名号が煩悩心の中に満入し、それが声に現れてくるのでありますから、称名の当体が名号であります。そこでその体徳の上から正定業というので、『行文類』に「称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり」とあるのがその意であります。
そうしていまこれを「報恩」というのは行者の称うる心持からいうのであります。さきにいうように、称えてこれを往生の因にあてがうのでなく、ただこれ仏恩報謝のおもいよりほかにないからであります。蓮如上人の『御一代記聞書』に、
弥陀をしかと御たすけ候へとたのみまゐらすれば、やがて仏の御たすけにあづかるを南無阿弥陀仏と申すなり。しかれば、御たすけにあづかりたることのありがたさよありがたさよと、こころにおもひまゐらするを、口に出して南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申すを、仏恩を報ずるとは申すことなりと仰せ候ひき。
とあり、また、
蓮如上人仰せられ候ふ。信のうへは、たふとく思ひて申す念仏も、またふと申す念仏も仏恩にそなはるなり。他宗には親のため、またなにのためなんどとて念仏をつかふなり。聖人(親鸞)の御一流には弥陀をたのむが念仏なり。そのうへの称名は、なにともあれ仏恩になるものなりと仰せられ候ふ[云々]。
と示されてあります。
乃至十念の称名は仏恩報謝の経営なりというのは法義の性質上、往生の業因決定の後の作業であり、行者の称える心もちよりいうのであって、如来が本願に、信心のほかに乃至十念の称名を誓われたわけは、すでに「十念誓意」の題のところで述べたように、信心はつとめ易く、行じ易い称名として相続せしめることを誓われたのであって、仏が報恩を求められたものではありません。『法事讃』に諸仏世尊の徳を讃嘆する文に、
長劫に勤々として疲労の苦痛を忍びたまふ。 また生のために苦行すといへども、小恩を覓めず、
とのべられてある。阿弥陀仏如来も、もとより本願に報恩を誓われるはずはないのであります。