「後生の一大事」といふ事

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2009/07/30(木)
親鸞聖人の書かれたものには「後生の一大事」という言葉は出てきませんが、蓮如上人の御文章には「後生の一大事」「一大事の後生」「後生」「後世」などの言葉が多くあります。
※蓮如上人の書かれたお手紙類は300通以上残っておりますが、ここでは5帖80通の御文章の中で見ていきます。
※「後生」は42回、「後世」は4回(後世者を含む)書かれています。

後生の一大事」は、浄土真宗を学ぶ上で大切な言葉であることは間違いありません。
では、蓮如上人はどういう意味で「後生の一大事」を使っておられるでしょうか。

御文章に書かれている「一大事」】
御文章には「一大事」という言葉は10ヶ所あります。
後生の一大事」    2ヶ所
「今度の一大事の後生」 2ヶ所
「一大事の往生」    3ヶ所(類似を含む)
その他         3ヶ所

[「後生の一大事」とある御文章

3帖目第4通 大聖世尊
しかればこの阿弥陀如来をばいかがして信じまゐらせて、後生の一大事をばたすかるべきぞなれば、なにのわづらひもなく、もろもろの雑行雑善をなげすてて、一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて、ふたごころなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を光明を放ちてそのひかりのなかに摂め入れおきたまふなり。

5帖目第16通 白骨
たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。

[「今度の一大事の後生」とある御文章

4帖目第12通 毎月両度
それ当流の安心のおもむきといふは、あながちにわが身の罪障のふかきによらず、ただもろもろの雑行のこころをやめて、一心に阿弥陀如来に帰命して、今度の一大事の後生たすけたまへとふかくたのまん衆生をば、ことごとくたすけたまふべきこと、さらに疑あるべからず。

5帖目第14通 上臈下主
それ、一切の女人の身は、人しれず罪のふかきこと、上臈にも下主にもよらぬあさましき身なりとおもふべし。それにつきては、なにとやうに弥陀を信ずべきぞといふに、なにのわづらひもなく、阿弥陀如来をひしとたのみまゐらせて、今度の一大事の後生たすけたまへと申さん女人をば、あやまたずたすけたまふべし。

[「一大事の往生」とある御文章]

1帖目第11通 電光朝露・死出の山路
これによりて、ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり。
これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。
しかれば今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。

2帖目第7通 五戒・易往
かくのごとくこころうるうへには、昼夜朝暮にとなふるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。かへすがへす仏法にこころをとどめて、とりやすき信心のおもむきを存知して、かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。

2帖目第10通 それ当流聖人・仏心凡心
それ、当流親鸞聖人のすすめましますところの一義のこころといふは、まづ他力の信心をもつて肝要とせられたり。この他力の信心といふことをくはしくしらずは、今度の一大事の往生極楽はまことにもつてかなふべからずと、経・釈ともにあきらかにみえたり。

[上記以外で「一大事」とある御文章]
1帖目第5通 雪の中
しかれども、この一流のうちにおいて、しかしかとその信心のすがたをもえたる人これ なし。かくのごとくのやからは、いかでか報土の往生をばたやすくとぐべきや。一大事といふはこれなり。

1帖目第10通 吉崎
そもそも、吉崎の当山において多屋の坊主達の内方とならんひとは、まことに先世の宿縁あさからぬゆゑとおもひはんべるべきなり。それも後生を一大事とおもひ、信心も決定したらん身にとりてのうへのことなり。

1帖目第10通 吉崎
答へていはく、信心をとり弥陀をたのまんとおもひたまはば、まづ人間はただ夢幻のあひだのことなり、後生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、人間は五十年百年のうちのたのしみなり、後生こそ一大事なりとおもひて、もろもろの雑行をこのむこころをすて、あるいはまた、もののいまはしくおもふこころをもすて、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして、ただひとすぢに弥陀に帰して、このたびの往生は治定なるべしとおもはば、そのありがたさのあまり念仏を申して、弥陀如来のわれらをたすけたまふ御恩を報じたてまつるべきなり。

【「後生の一大事」の意味】
これら10ヶ所(9通)の御文章と釈尊や親鸞聖人のお言葉から分かることは次の2つです。
①信心決定せずに死んだならば、再び迷い苦しみの世界へ戻ることになる。最悪、地獄へ堕ちる。
②信心決定した人が死ねば、極楽往生でき弥陀同体のさとりを得て、永生の楽果を受ける。
この2つをともに「後生の一大事」ということは問題ないと思います。
ただ、蓮如上人が「後生の一大事」と言われているのは②の意味で言われていることが多いと思います。

では、この2つだけが後生の一大事の意味かと言いますと、そうは思われません。
蓮如上人が「今度の一大事の後生」「今度の一大事の往生」とおっしゃっていますように、吸う息吐く息が後生と触れ合っている今、せっかく人間に生まれ、仏教を聞かせて頂いているのに、このまま息が切れたらどうなるか、信心決定し往生一定の身になれるかどうかという切迫した一大事のことと思います。
この場合、後生の一大事は、死んでからだけの一大事ではなく、今の一大事でもあり、「後生に起きる一大事」だけではなく「今、後生と触れ合っている一大事」「後生という一大事」と理解してもいいと思います。

これは、歴代の善知識方の御心でもあると思います。

人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く、この身今生に向かって度せずんば、更に何れの生に向かってかこの身を度せん。大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。
(釈尊 三帰依文・大方廣仏華厳経第六 浄行品第七)

呼吸のあひだにすなはちこれ来生なり。ひとたび人身を失ひつれば万劫にも復せず。このとき悟らずは、仏もし衆生をいかがしたまはん。願はくは深く無常を念じて、いたづらに後悔を貽すことなかれと。浄楽の居士張掄縁を勧む。
(親鸞聖人 教行信証行巻 宗暁『楽邦文類』の引用)

明日もしらぬいのちにてこそ候ふに、なにごとを申すもいのちをはり候はば、いたづらごとにてあるべく候ふ。命のうちに不審も疾く疾くはれられ候はでは、さだめて後悔のみにて候はんずるぞ、御こころえあるべく候ふ。
(蓮如上人 御文章1帖目第6通 睡眠)
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この記事へのコメント
>ただ、蓮如上人が「後生の一大事」と言われているのは②の意味で言われていることが多いと思います。

私も同じように思っています。そこで、次の一代記の御言葉
『後生一大事と存ずる人には御同心あるべき』は
・後生地獄へ堕ちる一大事と存ずる人には御同心あるべき?
・往生ほどの一大事と存ずる人には御同心あるべき?
か御文に尋ねてみました。

○一代記

一 凡夫の身にて後生たすかることは、ただ易きとばかり思へり。
「難中之難」(大経・下)とあれば、堅くおこしがたき信なれども、仏智より得やすく成就したまふことなり。
「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきにあらず」(執持鈔・二)といへり。
前住上人(実如)仰せに、後生一大事と存ずる人には御同心あるべきよし仰せられ候ふと[云々]。


○五戒・易往

しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは、まことに五戒をたもてる功力によりてなり。
これおほきにまれなることぞかし。ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。

※親鸞会での自分は「ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の地獄なり。」と聞いていました。

たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。
ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。

これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。

そもそもその信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、
善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす。

その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。
かやうに信ずる衆生をあまねく光明のなかに摂取して捨てたまはずして、一期の命尽きぬればかならず浄土におくりたまふなり。

この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。
されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。
さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。
あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。
これによりて『大経』(下)には「易往而無人」とこれを説かれたり。
この文のこころは、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、
信心をとるひとまれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。

※後生たすかることは、ただ易き(一代記)
※易往=浄土へはまゐりやすけれ(五戒・易往)
※これによって、「後生たすかること」=「浄土へはまゐり(往)」と聞こえます。

かくのごとくこころうるうへには、昼夜朝暮にとなふるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。

※このことから『後生一大事と存ずる人には御同心あるべき』は
『かへすがへす仏法にこころをとどめて、とりやすき信心のおもむきを存知して、
かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。』(五戒・易往)と教えてくださいます。

あなかしこ、あなかしこ。
2009/12/15(火) 23:24 | URL | #-[ 編集]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2011/03/27(日) 10:48 | | #[ 編集]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2011/03/27(日) 10:53 | | #[ 編集]
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