歎異抄第2章を読む その3

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2009/08/06(木)
ちょっと段落の区切りはおかしいのですが、前回の続きから始めます。

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」と教えられた法然上人のお導きによって救われたのだ、とおっしゃり、続いて逆説的な表現を含めて告白しておられます。
ここでは、「念仏無間」を唱えた日蓮宗を意識されていることも否定できませんが、「自余の行」「いづれの行」などの言葉から、「往生するための念仏以外の行」を唱えた異義に惑わされた門弟へのメッセージと思います。

今日取り上げた箇所の最後の
いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
について少し考えてみたいと思います。

ここで「およびがたき」とは何に対して「及び難き」なのかということでしょうか。
歎異抄第3章の
「いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを」
という類似の文から分かるように、「生死を離れること」に対して「及び難い」のです。

次の「とても地獄は一定すみかぞかし」とは、どなたかが書いておられましたように、親鸞聖人の深い罪悪観、懺悔からのお言葉です。
「かへつてまた曠劫を経歴せん」(教行信証 総序)
「ひとたび人身を失ひつれば万劫にも復せず」(教行信証 行巻 居士張掄)
などの御文と本質的には同じなのですが、自己を深く見つめられて、「とても地獄は一定すみかぞかし」とおっしゃったものです。

それはまた、そういう者を救う力のある阿弥陀仏の本願念仏への讃嘆でもあります。

弥陀仏の本願念仏は、
邪見・驕慢の悪衆生、
(※驕は本来はりっしんべん。以後同じ)
信楽受持することはなはだもつて難し。
難のなかの難これに過ぎたるはなし。

(正信偈)

この御文は正信偈の依経段の結びとして書かれている四句です。
この御文をもって
「なぜ信心獲得することが難しいのか?それは邪見・驕慢の悪衆生だからだ」
と言う人もいます。
しかし、この四句はそのように読むと間違いになります。
一句目の「弥陀仏本願念仏」は法を表し、
二句目の「邪見驕慢悪衆生」は機を表しておられます。
本願に相応する、すなわち信楽を受持することが「難」であると言われているのが、三句目と四句目です。
邪見とは邪に見る
驕慢とは自惚れ
ですが、「邪見」であり「驕慢」である「悪衆生」は、「いづれの行もおよびがたき身」であり、「いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる」にもかかわらず、自惚れて、「自余の行」・「何かの行」で救われようとするから「難」なのです。
この、「自余の行」・「何かの行」で救われようとするというのが「自力」です。

まとめて言うと、親鸞聖人が「難」とおっしゃっているのは、
・自力で起こす信心ではないから
・阿弥陀仏から賜る(他力の)信心だから
ということであり、さらに
・信心の素晴らしさ
を表現されたものなのです。

私が偉いから、賢いから信心決定したのではない。
またその真実信心をお伝えしているからといって、私が救うのではない。
私にはそんな立派なものは一つもないのだから。
阿弥陀仏のお力一つであり、念仏一つなのだ。
自分が救うと思っているのは、傲慢にほかならない。

との親鸞聖人の御心と拝します。

ところで、ついでに記しておきたいことがあります。
「念仏一つ」ということを表わされた御和讃に

浄土和讃 大経讃(71)
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ假門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ

があります。
この御和讃はどういう意味でしょうか?

浄土真宗聖典(原典版)で調べました。
少し難しいですので、飛ばして頂いてもいいです。
三帖和讃の底本、対校本は下記の通りで、何を底本にするかは、書物によって異なりますが、浄土真宗聖典では文明本です。

底本     龍谷大学蔵文明5年蓮如上人開版本
対校本 甲 本山蔵版本(昭和改譜本)
      乙 高田派専修寺蔵国宝本
      丙 高田派専修寺蔵顕智上人書写本
      丁 大阪府顕証寺蔵本(御草稿和讃)
(なお、乙は御草稿本とも言われ、一部に親鸞聖人の真筆を含むとされます。)

「真宗」についての左訓
丙 シンチホンクワンナリ
丁 眞実本願ナリ

「假」について
乙 要 「假」と頭書

「假門」についての左訓
丙 ハウヘンケモンナリ
丁 方便假門ナリ

「権・・・」の左訓
丙 ハウヘンノセントシンチノセイクワンヲワカストイフ
丁 方便ノ善ト眞実ノ誓願ヲワカストイフ

何を言おうとしているか分からないかもしれませんが、上の御和讃は、親鸞聖人の真筆を含む草稿本(国宝本)では、

念仏成仏これ真宗
万行諸善これ要門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ

となっているということです。
知っておられたらよろしいでしょう。

ある本によると「假門」=「他の仏教」と書かれていました。
つまり要門」=「他の仏教」=「浄土真宗ではない」となります。
もっと詳しく書かれた方がよかったのかもしれませんね。
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タグ : 歎異抄 要門

この記事へのコメント
>親鸞聖人が「難」とおっしゃっているのは(中略)
>・信心の素晴らしさ を表現されたもの
上記、どうしてそう言えるのかはっきりしません。もう少し説明をお願いします。
2009/08/07(金) 20:49 | URL | T #-[ 編集]
はじめまして

コメント有り難うございます。

「どうしてそう言えるのか?」という御質問ですが、親鸞聖人が「難信」とおっしゃっているところは、多く、上記3つの意味が含まれていると言えましょう。
少なくとも教行信証ではそう言えます。
「素晴らしい」と言いましたが、何の素晴らしさかといえば、法の徳です。


教行信証であげるならば、

ゆゑに知んぬ、円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと。(総序)

つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。 (教行信証 信巻)

彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。まことに勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり。ゆゑに甚難といへるなり。(教行信証 化土巻)

特に総序や信巻のお言葉は、徳を讃えられたものと拝することができます。
2009/08/07(金) 21:30 | URL | 近藤智史 #-[ 編集]
私も質問です。
>権実真仮をわかずして
とはどういう意味でしょうか?
「万行諸善の要門(仮門)が、念仏成仏まで誘導するために絶対必要な手段」との解釈が、「歎異抄をひらく」(P182)に書かれていますが本来の意味と異なるように感じますので。
2009/08/07(金) 22:56 | URL | m #-[ 編集]
簡単な訳ですと

権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ

の2行で

何が真実の教えか、何が方便の教えか弁別しないでは
阿弥陀仏の浄土はとても分からない

となりますね。
真仮廃立を教えられたものです。
2009/08/08(土) 00:00 | URL | 近藤智史 #-[ 編集]
この場合の「権仮」には
聖道門、要門、真門のいずれも含まれると拝すべきでしょう。
2009/08/10(月) 11:04 | URL | 近藤智史 #-[ 編集]
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