観無量寿経 覚書 その4

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2009/08/15(土)
今回も観無量寿経疏などからの引用が多いですが、辛抱して読んで下さい。

観無量寿経には二つの教えが説かれています。
韋提希夫人の請によって説かれた定散二善の要門と弘願です。

しかるに衆生障重くして、悟を取るもの明めがたし。教益多門なるべしといへども、凡惑遍攬するに由なし。たまたま韋提、請を致して、「われいま安楽に往生せんと楽欲す。ただ願はくは如来、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」といふによりて、しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す。弘願といふは『大経』(上・意)に説きたまふがごとし。「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」と。
観無量寿経疏 玄義分 序題門 要弘二門 註釈版聖典七祖篇300頁)

ここでは、釈尊と阿弥陀仏が、それぞれ全く別の教えを説かれたと、善導大師はおっしゃっています。
 釈尊が「浄土の要門」
 阿弥陀仏が「別意の弘願」

観無量寿経の中で、阿弥陀仏が別意の弘願を顕彰されたのは、第七華座観を説かれる前の「住立空中尊」と言われるところです。

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「あきらかに聴け、あきらかに聴け、よくこれを思念せよ。仏、まさになんぢがために苦悩を除く法を分別し解説すべし。なんぢら憶持して、広く大衆のために分別し解説すべし」と。
この語を説きたまふとき、無量寿仏、空中に住立したまふ。観世音・大勢至、この二大士は左右に侍立せり。光明は熾盛にしてつぶさに見るべからず。百千の閻浮檀金色も比とすることを得ず。ときに韋提希、無量寿仏を見たてまつりをはりて、接足作礼して仏にまうしてまうさく、「世尊、われいま仏力によるがゆゑに、無量寿仏および二菩薩を観たてまつることを得たり。未来の衆生まさにいかんしてか、無量寿仏および二菩薩を観たてまつるべき」と。
観無量寿経 註釈版聖典97~98頁)

ここの場面を善導大師は、

二には弥陀声に応じてすなはち現じ、往生を得ることを証したまふことを明かす。
観無量寿経疏 定善義 華座観 住立空中尊 註釈版聖典七祖篇423頁)

まさしく娑婆の化主(釈尊)は物のためのゆゑに想を西方に住めしめ、安楽の慈尊(阿弥陀仏)は情を知るがゆゑにすなはち東域(娑婆)に影臨したまふことを明かす。これすなはち二尊の許応異なることなし。ただ隠顕殊なることあるは、まさしく器朴の類万差なるによりて、たがひに郢・匠たらしむることを致す。
(観無量寿経疏 定善義 華座観 住立空中尊 註釈版聖典七祖篇423頁)

と教えられました。
韋提希は阿弥陀仏のお姿を拝見した時に、信心獲得・得忍(獲三忍)しました。
ここで釈尊がお姿を消されたかどうかは分かりませんが、少なくとも「苦悩を除く法を説く」とおっしゃった後は、言葉を出すのを止めておられます。
それは何を表されたのかというと、「要門」から「弘願」への転換です。
ここは定善十三観中の「7番目の華座観の前」であり「途中」です。
釈尊は説いておられる定善の教えを止められ、阿弥陀仏が特別に「別意の弘願を顕彰された」のです。


このように観無量寿経という一つの経典には、「要門」と「弘願」という二つの異なる教えが説かれているのですが、「住立空中尊・韋提希夫人の得忍」や観無量寿経の最後に定散二善をさしおいて、念仏を阿難尊者に教えておられることから、釈尊の本意も弘願念仏を教えられることであったと分かります。
そのことを善導大師は、先ほどの言葉に続けて言われています。

また仏の密意弘深なり、教門暁めがたし。三賢・十聖も測りてうかがふところにあらず。いはんやわれ信外の軽毛なり、あへて旨趣を知らんや。仰ぎておもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎したまふ。かしこに喚ばひここに遣はす、あに去かざるべけんや。ただ勤心に法を奉けて、畢命を期となして、この穢身を捨ててすなはちかの法性の常楽を証すべし。これすなはち略して序題を標しをはりぬ。
(観無量寿経疏 玄義分 序題門 要弘二門 註釈版聖典七祖篇301頁)

二河白道の譬えはここを表されたものです。
文中の来迎は「臨終の来迎」ではなく「平生の来迎」です。

善導大師は、阿弥陀仏が空中に立っておられることについて、次のように教えられました。

三には弥陀空にましまして立したまふは、ただ心を回らし正念にしてわが国に生ぜんと願ずれば、立ちどころにすなはち生ずることを得ることを明かす。
(観無量寿経疏 定善義 華座観 住立空中尊 註釈版聖典七祖篇423頁)

この文中の
ただ心を回らし正念にしてわが国に生ぜんと願ずれば、立ちどころにすなはち生ずることを得る」
歎異抄第3章
「(しかれども、)自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。」
と同じ文であることに気づかれると思います。

「立ちどころにすなはち生ずることを得る」は「立即得生」と言われ、本願成就文の「即得往生」と同じ意です。
阿弥陀仏が立ったお姿を見せられた意を、善導大師は、続けておっしゃっています。

問ひていはく、仏徳尊高なり、輒然として軽挙すべからず。すでによく本願を捨てずして来応せる大悲者なれば、なんがゆゑぞ端坐して機に赴かざるや。
答へていはく、これ如来(阿弥陀仏)別に密意ましますことを明かす。ただおもんみれば娑婆は苦界なり。雑悪同じく居して、八苦あひ焼く。ややもすれば違返を成じ、詐り親しみて笑みを含む。六賊つねに随ひて、三悪の火坑臨々として入りなんと欲す。もし足を挙げてもつて迷ひを救はずは、業繋の牢なにによりてか勉るることを得ん。この義のためのゆゑに、立ちながら撮りてすなはち行く。端坐してもつて機に赴くに及ばざるなり。
(観無量寿経疏 定善義 華座観 住立空中尊 註釈版聖典七祖篇424頁)

「立ちながら撮りてすなはち行く」は「立撮即行」と言われています。

この意を、善導大師は次のようにもおっしゃっています。

しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。
(観無量寿経疏 玄義分 註釈版聖典七祖篇312頁)

観無量寿経 覚書 その1」にも書きましたように、これが「悪人正機」の教えとなり、それを表わされたのが「住立空中尊」なのです。
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