観無量寿経 覚書 その6 観無量寿経は誰の為に説かれたのか

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2009/08/15(土)
「序分 発起序 散善顕行縁」を読んでみましょう。
散善の意味や九品については次回述べます。

散善顕行縁】
 そのとき世尊、すなはち微笑したまふに、五色の光ありて仏の口より出づ。一々の光、頻婆娑羅の頂を照らす。そのとき大王、幽閉にありといへども心眼障なく、はるかに世尊を見たてまつりて頭面、礼をなし、〔王の心は〕自然に増進して阿那含と成る。
 そのとき世尊、韋提希に告げたまはく、
「なんぢ、いま知れりやいなや。阿弥陀仏、ここを去ること遠からず。
なんぢ、まさに繋念して、あきらかにかの国の浄業成じたまへるひと(阿弥陀仏)を観ずべし。われいまなんぢがために広くもろもろの譬へ(定善)を説き、また未来世の一切凡夫の、浄業を修せんと欲はんものをして西方極楽国土に生ずることを得しめん。
 かの国に生ぜんと欲はんもの
は、まさに三福を修すべし。(散善
一つには父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。[世福ー中下]
二つには三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯さず。[戒福ー中上、中中]
三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。[行福ー上上、上中、上下]
かくのごときの三事を名づけて浄業とす」と。
仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」と。
観無量寿経 註釈版聖典91~92頁)

【善導大師の「散善顕行縁」の説明】
散善顕行縁のなかにつきてすなはちその五あり。
一に「爾時世尊即便微笑」より下「成那含」に至るこのかたは、まさしく光、父の王を益することを明かす。これ如来夫人の極楽に生ぜんと願じ、さらに得生の行を請ずるを見たまふに、仏の本心に称ひ、また弥陀の願意を顕すをもつて、この二請(阿弥陀仏の極楽浄土へ往きたいと願うことと、極楽へ往生する行を教えて下さいといと請うこと)によりて広く浄土の門を開けば、ただ韋提のみ去くことを得るにあらず、有識(=衆生)これを聞きてみな往く。この益あるがゆゑに、ゆゑに如来微笑したまふことを明かす。
ー乃至ー
二に「爾時世尊」より下「広説衆譬」に至るこのかたは、まさしく前に夫人別して所求の行を選ぶに答ふることを明かす。
ー乃至ー
「阿弥陀仏不遠」といふは、まさしく境を標してもつて心を住むることを明かす。すなはちその三あり。
一には分斉遠からず。これより十万億の刹を超過して、すなはちこれ弥陀の国なることを明かす。[分斉不遠]
二には道里はるかなりといへども、去く時一念にすなはち到ることを明かす。[一念即到]
三には韋提等および未来有縁の衆生、心を注めて観念すれば定境相応して、行人自然につねに見ることを明かす。[観念即現]

この三義あるがゆゑに不遠といふ。
ー乃至ー
「我今為汝」といふ以下は、これ機縁いまだ具せず、ひとへに定門を説くべからず、仏さらに機を観じて、みづから三福の行を開きたまふことを明かす。
三に「亦令未来世」より下「極楽国土」に至るこのかたは、まさしく機を挙げて修を勧め、益を得ることを明かす。これ夫人の請ずるところ、利益いよいよ深くして、未来に及ぶまで回心すればみな到ることを明かす。
四に「欲生彼国者」より下「名為浄業」に至るこのかたは、まさしく勧めて三福の行を修せしむることを明かす。これ一切衆生の機に二種あり。一には定、二には散なり。もし定行によれば、すなはち生を摂するに尽きず。ここをもつて如来(釈尊)方便して三福を顕開して、もつて散動の根機に応じたまふことを明かす。「欲生彼国」といふは所帰を標指す。「当修三福」といふは総じて行門を標す。
ー乃至ー
五に「仏告韋提」より下「正因」に至るこのかたは、それ聖を引きて凡を励ますことを明かす。ただよく決定して心を注むれば、かならず往くこと疑なし。
上来五句の不同ありといへども、広く散善顕行縁を明かしをはりぬ。
観無量寿経疏 序分義 発起序 散善顕行縁 註釈版聖典七祖篇378~387頁)

○即便微笑
韋提希夫人が「欣浄縁」にて「世尊、このもろもろの仏土、また清浄にしてみな光明ありといへども、われいま極楽世界の阿弥陀仏の所に生ぜんことを楽ふ。やや、願はくは世尊、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」と言ったことに対して、釈尊が微笑まれました。
それは、一人韋提希夫人だけではなく、十方衆生が阿弥陀仏の救いを聞き求める縁となることを喜ばれてのことです。
もちろん、定善や散善で救われるということではありません。阿弥陀仏がつくられた本願念仏によって救われるのです。
この「即便微笑」のお言葉で、本願念仏を説くことが釈尊の出世本懐であると言えます。
観経の「また未来世の一切凡夫の、浄業を修せんと欲はんもの」や観経疏の「ただ韋提のみ去くことを得るにあらず、有識これを聞きてみな往く」の文からも分かります。

親鸞聖人は
達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。
(教行信証化土巻本 要門釈 三経隠顕問答 観経隠顕 註釈版聖典382頁)
とおっしゃいました。

○阿弥陀仏、ここを去ること遠からず
大無量寿経や阿弥陀経には、阿弥陀仏は西方十万億を過ぎたところにある極楽におられると書かれていますが、観無量寿経には「ここを去ること遠からず」と説かれています。
如来大悲のはたらきは、常に行者と離れないと言われているのです。
このことは、善導大師が真身観の「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」の説明のところで、「三縁」として教えておられます。

問ひていはく、つぶさに衆行を修して、ただよく回向すればみな往生を得。
なにをもつてか仏光あまねく照らすにただ念仏のもののみを摂する、なんの意かあるや。
答へていはく、これに三義あり。
一には親縁を明かす。衆生行を起して口につねに仏を称すれば、仏すなはちこれを聞きたまふ。身につねに仏を礼敬すれば、仏すなはちこれを見たまふ。心につねに仏を念ずれば、仏すなはちこれを知りたまふ。衆生仏を憶念すれば、仏もまた衆生を憶念したまふ。彼此の三業あひ捨離せず。ゆゑに親縁と名づく。
二には近縁を明かす。衆生仏を見たてまつらんと願ずれば、仏すなはち念に応じて現じて目の前にまします。ゆゑに近縁と名づく。
三には増上縁を明かす。衆生称念すれば、すなはち多劫の罪を除く。命終らんと欲する時、仏、聖衆とみづから来りて迎接したまふ。諸邪業繋もよく礙ふるものなし。ゆゑに増上縁と名づく。
観無量寿経疏 定善義 真身観 三縁釈 註釈版聖典七祖篇 436~437頁)

このように、観無量寿経の隠彰=本意は、阿弥陀仏の本願念仏を説くことであり、煩悩具足の韋提希夫人と「未来世の一切凡夫」の為に説かれたものです。
「聖を引きて凡を励ます」とあるのも、聖者の為ではなく凡夫の為の教えであることを示しておられます。


なお、「仏様は見聞知」とは、上の「親縁」の「彼此三業不相捨離」のようなことを言います。(この御縁に御文章3帖目第7通も読んで下さい)
トゥルーマン・ショー(1998年 ジム・キャリー主演)や
マトリックス(1999~ キアヌ・リーブス主演)や
イーグル・アイ(2008年 シャイア・ラブーフ主演)
のような状態を教えたものではありません。
映画を知らない人は、・・・ごめんなさい。
阿弥陀様は重箱の隅をつつくようなことはされませんよ。
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