歎異抄第3章「悪人正機」を読む まず一通り読む & 理解する為の基礎知識

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2009/08/17(月)
善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

歎異抄第3章を読みましょう。
明治30年以後、歎異抄が注目されてより、「悪人正機」が親鸞聖人の教えの一番大きな特徴であると思われてきました。
その後、種々の研究がなされ、悪人正機説の始祖は誰なのかという議論が起きてきましたが、ここではそれについては述べません。
私は学者ではありませんし、これは学術論文ではありませんので。

さて、これまで、「観無量寿経」を読んで阿弥陀仏の救いが「悪人正機・善人傍機」であることを見てきました。
親鸞聖人の教えには他に大事なことがありますので、「悪人正機」が一番の特徴だとは言えませんが、いずれにせよ、阿弥陀仏の救いは悪人正機であることは、明々白々です。
(こんなに力まなくてもよかったでしょうか)
今回は歎異抄第3章を読む時の助けになると思われる、知識方の言葉を列記します。
歎異抄第3章には全部で7つの文がありますので、それぞれに番号をうって、下に対応する文を示します。
それほど難しい文ではありませんので、読んで下さい。
分からないところは、飛ばして読めばいいですよ。

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。
この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。
煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。
よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

①と⑦
[親鸞聖人]
これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。
(教行信証総序)

また傍正ありとは、
一には菩薩、大小      二には縁覚、
三には声聞・辟支等、浄土の傍機なり。
四には天、          五には人等なり。浄土の正機なり。
※傍正 仏の救いの正(まさ)しきめあてと、かたわらのもの、すなはち主たる対機(正機)と、従たる対機(傍機)をいう。(脚注)
(愚禿鈔・上 註釈版聖典511頁)

弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。
(歎異抄第1章)

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ
(歎異抄後序)

[法然聖人]
四十八の大願、初にまず一切凡夫のため、兼ねて三乗の聖人のためにす。故に知んぬ。浄土宗の意は本凡夫のため、兼ねては聖人のためなり。
(元暁『遊心安楽道』を法然上人が選択本願念仏集等に引用 註釈版聖典七祖篇 1185頁)

悪機を一人置きて、此の機の往生しけるは謂はれたる道理なりけりと知るほどに習ひたるを、浄土宗を善く学びたるとは云う也。此の宗は悪人を手本と為し、善人まで摂する也。聖道門は善人手本と為し、悪人をも摂する也。云云。
(醍醐本 法然上人伝記 三心料簡の事 第7)

およそ聖道門は智慧をきわめて生死を離る。浄土門は愚痴に還って極楽に生る。ゆえんは聖道門に趣くの時は、智慧をみがき。禁戒を守り、心性を浄むるをもつて宗と為す。しかるを浄土門に入るの日は、智慧をも憑まず、戒行をも護らず、心器をも調へず、ただただ甲斐なき、無智の者と成りて本願を憑みて往生を願ふなり。云云。
(醍醐本 法然上人伝記 三心料簡の事 第11)

善人なを以て往生す況や悪人をやの事 口伝これ有り
(醍醐本 法然上人伝記 三心料簡の事 第27)

私に云く、弥陀の本願は、自力を以て生死を離るべき方便を有する善人のためにおこしたまはず、「極重の悪人、他の方便なき」やからを哀れんでおこしたまへり。しかるを菩薩、賢聖も、これに付きて往生を求め、凡夫の善人も、この願に帰して往生を得、いはむや罪悪の凡夫、もっともこの他力をたのむべしといふなり。悪しくし領解して邪見に住すべからず。たとへば、「もと凡夫の為にして、兼ねて聖人の為にす」といふが如し、よくよく心得べし。
(同上 上の文の解説 勢観房源智の筆と思われる)
※文中「もっともこの他力をたのむべし」は少々誤解を生ずる恐れがあります。つまり、歎異抄に書かれている「悪人正機」とは少々ニュアンスが違うのです。

無智の罪人の念仏申て往生すること、本願の正意なり。
(熊谷直実に示す御詞)

弥陀如来汝のごとき罪人の為に、弘誓をたて給へる其の中に、女人往生の願あり。然れば則ち女人はこれ本願の正機なり。
(室の津の遊女に示されける御詞)

ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。
(選択本願念仏集 第11讃嘆念仏章 註釈版聖典七祖篇1258頁 下品下生の説明です)

まづ法然上人の御庵室へ参りて、弥陀本願の念仏は、正しくは悪人の為、傍には聖人の為に発されたるよし、日来承侍りしかば、・・・
弥陀の本願は専ら罪人の為なれば、罪人は罪人ながら名号を唱て往生す。是本願の不思議也。
(九巻伝 巻五上 甘糟太郎忠綱が法然上人に尋ねた言葉とお答え)

[覚如上人]
一 如来の本願は、もと凡夫のためにして聖人のためにあらざる事。
 本願寺の聖人(親鸞)、黒谷の先徳(源空)より御相承とて、如信上人、仰せられていはく、「世のひとつねにおもへらく、悪人なほもつて往生す、いはんや善人をやと。この事とほくは弥陀の本願にそむき、ちかくは釈尊出世の金言に違せり。そのゆゑは五劫思惟の苦労、六度万行の堪忍、しかしながら凡夫出要のためなり、まつたく聖人のためにあらず。しかれば凡夫、本願に乗じて報土に往生すべき正機なり。凡夫もし往生かたかるべくは、願虚設なるべし、力徒然なるべし。しかるに願力あひ加して、十方衆生のために大饒益を成ず。これによりて正覚をとなへていまに十劫なり。これを証する恒沙諸仏の証誠、あに無虚妄の説にあらずや。しかれば御釈(玄義分)にも、〈一切善悪凡夫得生者〉と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」と仰せごとありき。
(口伝鈔 第19 註釈版聖典907頁)

※ここでは、「凡聖相対」と「善悪相対」の両方が述べられています。「観無量寿経 覚書 その3」 を参照して下さい。


[善導大師]
三には弥陀空にましまして立したまふは、ただ心を回らし正念にしてわが国に生ぜんと願ずれば、立ちどころにすなはち生ずることを得ることを明かす。
(観無量寿経疏 註釈版聖典七祖篇423頁)


[親鸞聖人]
いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
(歎異抄第2章 註釈版聖典833頁)
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