「宿善往生を唱えた覚恵法師と、信心往生を立てられた如信上人との、諍論によっても明らかだ」と書かれている本があるのですが、「覚恵法師と如信上人との諍論」とはどのようなものか説明してある本を読んだことがありません。
「明和の法論」や「西吟月感諍論」(承応の鬩牆 げきしょう)について説明してあるような辞書でも、「覚恵法師と如信上人との諍論」は書かれていません。
「これって本当にあったんだろうか?」とふと思ったのです。
状況から考えても、ちょっとあり得ないのではないかとも思うのですが・・・。
どなたかご存知の方がおられたら、是非教えて頂きたいと願っています。
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有り難うございます。
Kさんがあげておられるのは、覚如上人と唯善との諍論です。
これについては、慕帰絵詞(従覚著)や最須敬重絵詞(乗専著)に書かれていますので、知っております。
私が知りたいのは、如信上人(善鸞の子、本願寺2代宗主)と覚恵法師(覚信尼公の長男で覚如上人の父)との諍論の詳細または、それが記述されている書物か論文です。
インターネット上の検索では見つからないのではないかと思います。
龍谷大学や大谷大学などの仏教系大学の図書館になら、何か手掛かりがあるかもしれません。
もしよろしければ覚如上人と唯善との諍論についても教えていただけないでしょうか?
上に挙げたページを読んでみて今ひとつ結論がよくわからなかったもので。
この方の説明を拝見しましたが、詳しく説明してあり、諍論の内容はお分かりになると思います。
私の見解もこの方とほぼ同じです。
問題は結論ですよね。
諍論自体は「その後は互ひに言説を止めけり。」とありますように、どちらが諍論に勝ったのか分かりません。
血縁者同士の諍論ですので、あえて書かなかったのかもしれません。
『慕帰絵詞』 巻5 第1段 には最後に、
伊勢入道行願とて五條大納言邦綱卿遺流なりしは、真俗二諦につけ和漢両道にむけてもさる有識の仁といはれしが、後日に此事を伝聞て彼相論のむねを是非しけり。伊勢入道詞云、北殿(覚如上人)の御法文は経釈をはなれず、道理のさすところ言語絶し畢ぬ。また南殿(唯善)の御義勢は入道法文也とてあざわらひけりと云々。昔は大谷の一室に舅・甥両方に居住せしにつきて南北の號ありければ、行願はかくいひけるにこそ。
と書かれて終わっています。
最須敬重絵詞第18段にも同じ諍論が書かれています。(文章は違いますが)
それを読んでもはっきり分かりません。
なぜかぼやっとしています。
伊勢入道行願の批評もどうとでもとれますが、私の解釈は「覚如上人の意見は学者の意見、唯善殿の意見は同行の意見で、結局引き分け」と言っているように思えます。
おそらく、信心決定した人でもどういう因縁があって救われたのかは仏様でないと分からないことなのではないでしょうか?
遇獲行信遠慶宿縁
です。